(四)
その夜は風が強かった。
風がうなる度にさかんに木戸がバタバタと音をたてた。
「操はまだ戻らんな。」
翁は文鎮時計を見た。もう九時を過ぎていた。
「そういえば蒼紫様も戻りおへんなあ。」
お近、お増は蒼紫の出先が警察とは知らない。
「二人でどこぞへ行きはったんとちがいますう?」
と、顔を見合わせてクスクス笑っている。翁は表の戸を閉めた。
――昨日、おかしな死体があがったとか操が言っておった。あれも刀を持って出て行った。悪い予感が当らなければいいが。
翁がそう思っていた頃、京の東山のふところのさる高級邸宅で、京都府警からの厳重警備が敷かれていた。
その中に沢下条張の姿もあった。張は斎藤の命令で動いていたが、人手不足とあって廻されてきたのである。張は詳しい命令を受けておらず、また他の警官隊も「十本刀の張」の事など知らずに、単なる用心棒だったので、この場合張は面白くなかった。
―――志々雄さんは京を大火の海にするところやったんやぞ。俺も斎藤の命令やからしぶしぶ動いとったのに、ケッ、おもろない。
張は入り口近くで張っていた。立派な純和風の日本家屋である。
「なんやたいそうな張り込みや。えらいやつでも来るんかいな。」
と思ったその時である。
張の見える横丁の角で張っていた警官二人が、声もなく倒れたのである。何者かがものすごい勢いでこちらに向かってやってくる。
―――なんや。宗次郎の縮地みたいな―――。
瞬間、張は背中の大刀を引き抜いた。
剣心らに折られた刀の代わりに、彼は二本の大刀を背にくくりつけていた。
「おもろい。こういう奴に会うのは久しぶりや。」
張は片方はふりかぶり、片方はわきを狙って入れた。
が、しかし―――。
ガキン!大刀が宙に跳ね飛んだ。
「なん―――。」
張は反動で膝をついたが、素早くふところから白刃の大刀を引きずり出した。
相手はするとなんと、およそ重力というものを感じさせぬ動きで、サッと後ろに退いたではないか。
大きなマントが風にひるがえった。張の鞭打った白刃の大刀は、相手の間合い手前で跳ね飛んだ。
「クソッ、何者じゃあッ。」
張は白刃の大刀のしなる動きを、もう一度相手に打ち込んだ。
マントの男が笑った。長い黒髪をなびかせ、手には長剣を握っていた。張がおぼえているのは、この場面だけである。
次の瞬間、男の体は中空にまで跳ねた。月影と剣が重なった次の時、張は猛烈な打撃をくらっていた。
そしてよろけた張を、神の如き駿速の刃が、優美な弧を描いてなぎ斬った。男は唇の端で笑うと、門の中に侵入した。
「てェイッ」
銃による一斉射撃が男を見舞った。しかし当ったのはマントのすそのみだ。男の走るスピードは全く衰えず、警官隊の一群は全員その場でうめいて倒れた。しかし邸内に踏み込んだ途端、ガトリング銃の連射がまた襲ってきた。
「フ・・・・」
男はバサリとマントで身をつつむと、長剣を構えた形でダッと駆け出した。
驚くべきことに、男は銃撃をきれいによけて廊下を進んだ―――いや、弾痕が当るよりも身のかわしが早いのである。弾の動きまで読んでいるかのような、ほとんど目にうつらないスピードだった。
それでも襖の内側から連射している者がいた。が、無情にも襖ごとザクリと長剣に斬られた。血しぶきが廊下に飛び散り、男は襖を蹴破った。次の瞬間、キン、と音を立てて数本の苦無が飛んできた。男は言った。
「良い娘だ。女は殺すに忍びん。」
奥の大広間で操が立っていた。男が身を沈めて向かってくると、同時に走り出していた。操は腰にななめに小刀を差していた。後ろ手から抜いた。
―――蒼紫様と同じ抜き方なら!
彼女はこの日まで、ひそかに御庭番式を練習していたが、帯刀した事はなかった。どうしてそんな無茶をする気になったのか。
操はこの時、たしかに男が斬りかかって来る姿を目に見たのである。
しかし、次の瞬間―――。
「ハウッ」
稲妻の如き閃光が操を襲った。彼女の小柄な体は木の葉のように宙を舞い、目を暗黒の闇が貫いた。そのまま頭から畳に落ちようとした刹那、何者かが影となって闇を縫うように駆け上ってきて、彼女の体を抱きとめた。操は気を失っていた。
黒い人影は蒼紫だった。コートを脱ぎ捨て、体に張り付く一見警邏隊のような袷の上下を着ている。蒼紫と広間をはさんで対峙した男が剣気を感じたのかつぶやいた。
「政府の剣客か。」
蒼紫は流れるような動作で操を床に置くと、持っていた長刀のさやの胴を口にくわえ、首をひねって上下に両刀を抜刀した。その動作は普段の彼の沈静さから遠く、抜刀斎とやり合った時よりも獣じみていた。
続けて両刀を交差させると、地を這うように、恐るべき速さで迫った。呉鉤十字のクロスをななめにした形で、相手の足を狙っていた。相手の男は、長刀を逆刃に返して、斬り上げた。返されたが、男の足をかすった。男の長い異国めいた衣装の一部が切り裂かれた。男は言った。
「なるほど、そういうたぐいの者か。言え。政府高官の奴はどこに逃げた?」
「知らぬ。」
「では貴様を倒して帰るとしよう。人一人の為にご苦労なことだ。」
男は宣言して剣先を蒼紫に突きつけると、片手で悠然と構えた。蒼紫も狙っているが、踏み込めない。
―――飛天御剣流。しかし、小技ではない。抜刀斎とはちがう流儀だ。何故だ。比古の教えた者ではないのか。
蒼紫は観察した。若い男だ。抜刀斎と比べずいぶんと長身で、髪を伸ばし戦国時代のような南蛮風の長衣を身にまとっている。と、胸に何やら数珠に似たものが光っているのを認めた。
―――魚座のメダリオか。
手紙のマークと一致した。
と、その瞬間、男は斬りかかってきた。
思った通り上段からの一撃。俊速だ。
蒼紫は二の刀地で受けて、利き腕で突いた。連続技でつなげて隙を狙い、回転剣舞でしとめる。室内での攻撃である事に賭けた。
闇の中で、青い刀身の光がたて続けに火花を散らし、尾をひいた。
ところが相手は、蒼紫の動きについて来たのだった。
その長い太刀で突きを全部受けてしまう。太刀の間合い、角度、相手との距離、すべてを読んで、知り尽くして剣をさばいている。蒼紫は戦慄を覚えた。本当に、抜刀斎とは違うタイプだ。
―――この男、俺の動きも読み取りつつある。しかし。
蒼紫は上段より振りかぶった。回転剣舞六連。が、男は間一髪でよけて言った。
「私を釘付けに張り付けようとしても、無駄だ。」
蒼紫はとっさに身を伏せた。剣でまだ攻撃しようとしていたから、一瞬の判断だ。
男の剣が、そのためを取った距離からは信じられぬ速さで伸びてきて、蒼紫の即頭部斜めを強打してきたのだった。かわす事ができたのはまさに紙一重だ。しかし蒼紫は肩の一部を斬られた。男と蒼紫は交錯し、離れて体勢を立て直した。
「―――くっ。」
「―――見切られたか。こんな者は初めてだ。しかし次で終わりだ。」
男は剣を水眼に構えた。蒼紫は前のめりになって、剣を握り締めた。背中に血が滲みはじめている。ここで敗北、そして死か。
―――奴は抜刀したままだ。また今の技か。
蒼紫は剣を縦十字に構えた。男が口の端で笑った。
「守りきれるかな。」
声とともに、男が飛び掛ってきた。正面から数回連続して打ち込むつもりだ。蒼紫は寸時で後退した。背後にこの日本間の土壁がある。蒼紫は体をひねり壁を蹴った。
―――かわした!
男の顔が動揺した。しかし剣を旋回させすぐに蒼紫を追った。蒼紫はその時にはもう、小太刀を攻撃の形に離し構えていた。
蒼紫は一瞬に全力をこめた。小太刀が空間を切り裂いた。陰陽撥止。だが同軌軸ではダメだ。
―――もう一撃は奴が身をそらせた時に。ここだ。
蒼紫は限界まで身を屈してバネで投げた。相手が剣で胸をかばうのが見えた。剣と剣とが激突してはじかれる音が残響した。蒼紫は畳に影となって片膝をつくと、光るものを素早く握った。苦無が三連。さっき投げられたものだ。蒼紫はすさまじい形相でそれを構えると、男を凝視した。男は言った。
「恐ろしい男だな。汚い手を平気で使う。」
男の胸から血が流れた。キン、と音がして胸にかけられたメダリオが落ちそうになるのを、男は左手で受け止めた。男は苦笑して言った。
「貴様など本当はどうでもいいのだ。私をこれ以上追えば殺すぞ。」
男は言うと、マントをひるがえし、来た時と同じように疾風の如く闇に消えた。
―――誇りか。
蒼紫は闇の中で立ち止まった。
あの男の目ははっきりと自分を軽蔑していた。
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