(三)


京都府警は河原町を下がった京都府庁の隣にある。明治維新の後に建てられた、煉瓦造りの建物だ。

今、その廊下を一人の青年が歩いていた。引きずるような長いコートを着ている。と、青年は一室の前に立ち止まり、扉を開けた。
扉のすぐ中では電信係りの女性がさかんに電信を打っていたが、入ってきた青年の整った容貌に、しばし見とれた。
近頃街なかに置かれ出した、西洋彫刻の塑像のようである。引き締まった体つきに高い鼻梁の陰を帯びた瞳の、研ぎ澄ました鋭い面をもった工芸品といった面持ちである。
だが、青年が後ろ手に長い拝刀を持っているのを見ると、彼女はあわてて目をそらせた。
この廃刀令のご時世に、こういうものを持っている、こうしたなりをした人物と言えば、国体論を唱える武道家か政治家と相場が決まっていた。もしくはヤクザ者である。青年が手にした刀は、彼女が肝をつぶすに十分な長さがあった。
しばらく青年は、書類ばかりが机の上に山積みになっている、人のいない部屋をながめていたが、またふらりと出て行こうとして、背後から呼び止められた。

「四乃森さん。四乃森蒼紫さんじゃありませんか?」

書類の陰になっていて、見えなかった奥の机から、蒼紫とそう年かっこうが変わらないだろう青年が、腰をあげていた。男は快活そうに言った。
「すぐにここにお見えになるとは、話に聞いただけのことはありますね。僕は東京の警視庁から来た、乗鞍彦馬と言います。まあこちらにおかけになってください。」
彦馬は蒼紫に椅子をすすめたが、蒼紫はつっ立ったままだ。
「斎藤が自分に逮捕令状をとったと聞いたのだが。」
「あァあの先生ですか。」
と、彦馬は糊のきいたシャツのポケットから煙草を取り出した。机の上にはすでに吸殻が山のように積まれている。
「煙ってもいいですか?僕はごらんの通り、いやしい人間なんで、あの先生のように上品な吸い方はできないんですよ。舞台あいさつみたいな感じで、ここぞという時にだけ火をつける。いやぁ見事なもんだ。えーっと、あなたに見せないといけない書類は・・・と・・・。」
彦馬は書類の束から器用な手つきで一枚を抜き出した。英文の文字と地図が書かれていた。
「まずこれが第一現場です。第二・第三現場もありますが、極秘事項なので、あなたにはこれしか見せません。昨日、四条河原でまた猟奇死体があがったそうですが、失礼ですが、あなたはそういったものに興味はおありですか?」
「ない。」
「そうでしょうか。だってあなたもそういう死体を引きずって歩いているんじゃありませんか。むしろあの先生よりも。僕はそう思っているんですがね。これは実にあなた向きの事件ですよ。」
「捕縛するなら早くしろ。」
「捕縛ですか?それはないです。」
「しかし斎藤が。」
「ないと言ったらないんだな、これが。だいいちあなたも署にではなく、昔なじみのここを選んだ以上、まだ捕まりたくないんじゃないですか?」
と、彦馬は下から見上げてニヤリと笑った。
「実は今回の件について、僕は僕なりに調べてみたのです。あなたの所にこの事件がまわってきたカラクリについてですが、僕はあの先生のやり方をはっきり言って好みません。そしてあなたの動き方も悪即斬ではまず絶対につかみきれない。」
「・・・・・・・・・・。」
「ああ、僕がこういうことを言うのは、僕がどこの出身だとか、どういう経歴だったかというのは全く関係ないんです。ただあの先生、ついに愚かしさを露呈したかなというのがあの逮捕状でしてね。本当は僕の方から葵屋に菓子折りでも持ってうかがおうと思っていたぐらいなんです。」
「斎藤は愚かな男ではない。」
彦馬は大声で笑い出した。
「あなたが言っておられるのは、剣客としては、という事でしょう。こういう言い方をすれば剣客としてのあなたを傷つけるかも知れませんがね。話が逸れましたが、つまりあなたは志々雄一派の事件に関しては、以前の武田観流の時と同じく、敵情視察もかねて、あと緋村抜刀斎の監視役として、実に嫌な役回りをしておられた訳ですから。その辺をあの先生は全くわかってない。ずばり言いますと、あなたの黒幕は、薩閥の海軍です。」
彦馬は自信たっぷりに言い切った。蒼紫は少し目を細めた。
「あなたが連中とそういった関係になっていった時期もだいたいわかりますよ。慶喜公が帰順して、幕軍が北に逃げたあたりからでしょう。恐るべき転身の仕方だと言っておきましょう。」
「では斎藤はそこまで読んで、俺を逮捕したくなったのだ。幕閣の裏切り者として。あいにくだが海軍に知り合いなどおらぬ。」
「でも向こうからこうして頼んできているみたいなんですがね。まあいいでしょう。藤田先生のあちらでの御武運を、僕も祈ることにしましょう。しかし今の言葉で、あなたが藤田先生を必要以上に持ち上げる気持ちもよくわかりました。」
「武人としての斎藤に会ったことはあるのか。万事ずいぶん楽観的だが。」
彦馬は愉快そうに答えた。
「あなたが悲観的すぎるんじゃありませんか。僕はこれでもフェンシングが得意でしてね、あの先生と突き合い合戦をした事があります。ヤブ蚊のような奴め、とののしられました。」
「貴様の自慢話なら、帰る。」
「おっとそういう訳にはいかないんです。来ていただいた以上、御指命の向きを聞いていただかないと、東京から今度はどんな人物が来るか、わかりませんよ。」
「貴様。」
彦馬は蒼紫の言葉をほぼ無視して話を続けた。
「さてこの英文の手紙ですが、内容はあなたが読んでおいてください。僕はもう読みました。この斬干状が送りつけられた後、元幕府の要人だった人物が惨殺されたのです。流儀はお信じにはなられないでしょうが、飛天御剣流でした。僕にはわかるのです。」
「緋村は東京で不在だ。」
「ああ、あの人はシロです。東京から一日で殺しに来られませんから。神谷道場に現在もいるウラも取ってあります。そしてこの緋村さんの師匠である人物もシロです。理由ですか?この人は英文が書けないからですよ。また幕府の要人を襲う理由も見当たりません。」
「では別の人間という事になるな。しかし俺には」
「かいもく見当がつきませんか?ではこの手紙の隅のこのマークには心当りはありませんか。」
蒼紫はじっと見つめてから答えた。
「西洋占星術の魚座だが、手紙の趣旨からすれば、キリストが天から与えた神の魚、マナではないのかな。しかし魚座という事は、何かの期限を表しているのかも知れない。」
「御明察。さすが元隠密御庭番衆の方ですな。奴らはこのマークをところかまわず書き込んでます―――人体にもね。」
「奴らか。」
「そう、複数グループです。この点においても比古清十郎はクロではありません。あの先生の孤独癖もあなたに似て、そうとうなものですから。」
「それだけ聞かせて俺にどうしろと言うのだ。」
「次はその地図にある高官の邸宅を襲うとの予告を、昨日あがった死体に印を入れてきました。あなたのお仕事です。僕は知りません。負けても戦ってください。ずいぶんバラバラにしてきたんでしょう、その刀で。」
二人はここで一分間近くにらみあった。
先に口を割ったのは、意外にも蒼紫の方だった。蒼紫は机の上の紙を取り上げた。
「この文面、参考のためにもらっておくぞ。」
「どうぞご自由に。それは写しですから。」
蒼紫は彦馬に背中を向けると、無言でその場から立ち去ろうとした。だが、扉の前まで来た時、彦馬は追い討ちをかけるようにこう言った。
「サイキョウノハナヲテヲルキハナイカ―――これはさる人物から今朝届いた電信です。呑気なもんです、上の方は。でも僕はあなたという大剣豪にめぐり会えた今日という日の事を、一生忘れないでしょう。これは本当です。」
蒼紫は彦馬に冷たい一瞥を投げると、部屋を後にした。
暗い廊下を抜けて、表通りに出た時、馬車道を後も見ずによぎり駆けて行く少女の幻影を、蒼紫は一瞬認めた。
「操」
蒼紫の唇はそう動いたが、彼は全く別の方向に歩き出した。
その日蒼紫は葵屋へは帰ってこなかった。

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