(五)
蒼紫は操を抱え上げると、剣を腰に斜めに差し、黙って門の方へ歩き出した。
累々と、警官隊の傷死体が続いている。蒼紫らが歩いた後も点々と血の華がにじんだ。
――操。
蒼紫自身も負傷していたが、操もけがを負っているらしい。背負っていると、手に血液のぬめる感触が感じられた。と、門を出て数歩歩いた時に、向こうから人影が多人数でやって来るのが見えた。とっさに身構えたが、警官らが駆けつけて来たのだった。
その中に、昼間見た乗鞍彦馬がいるのを見て、蒼紫は眉をひそめた。彦馬は蒼紫に尋ねてきた。
「賊はどうしましたか?」
「去ったように思うが、用心にこしたことはない。」
「しかし、本当に来られるとは思いませんでしたよ。」
「あの逮捕状を帳消しにしてもらいたいからな。」
「藤田先生にはお伝えしておきます。」
「たのむ。」
と、行き過ぎようとした蒼紫を、彦馬は呼び止めた。
「やっぱり飛天御剣流でしたか。どんな男でしたか?」
蒼紫は立ち止まった。鋭い目つきで振り返って言った。
「俺が会った男は一人だ。飛天御剣流だった。魚座のメダリオを首にかけていた。その線で洗うのだな。」
「ご協力感謝します。その背中の人は警察病院の方へでも―――。」
「断る。」
取り付くしまもなかった。蒼紫の孤影は瓦斯灯のあわい光の下に、青い影を引いて坂道を下って行った。彦馬は言った。
「いい人だが、これからも利用されるな。」
翌朝葵屋は一騒動であった。店は朝からのれんを落としている。
昨日の深夜、蒼紫が店に傷を負って、操と帰ったせいである。
今、蒼紫はまた包帯を巻いて和服姿で翁と向かい合っていた。
翁は言った。
「どういう事なんじゃ、これは。蒼紫、おまえはわしらに隠している事があるな。言ってみんか。」
「翁には話したくない。」
「なんじゃと。わしはおまえを御頭に推薦した時からよく見てきておる。ならば言ってやろう。何か警視庁の方から言われたんじゃろう。それかもっと別のところか。」
「――――――――。」
「おまえがわしらを裏切った時に、見当をつけとったんじゃ。身売りは結構じゃが、もうわしらを巻き込まんでもらいたい。」
「身売りではない。翁には、武田観流の館で死んだ同志四人の無念はわからぬ。」
「わかる。緋村君の話の他に、わしの判断でわかっておる。しかしおまえも悪い。最強の称号とは何じゃ。おまえ自身の奴らへの手みやげか。緋村君を倒す事に何の意味があった。維新志士を斬る事に何の意味があった。」
「抜刀斎を倒す事に意味があったのだ。それ以上は話したくない。」
「なに。」
「あの頃京都は遠かった。俺も若造で翁について深く考えたことはなかった。」
「失敬な。わしはわしで幕府と朝廷の舵取りに懸命じゃったわい。」
「同じ御庭番衆でもすでにそこで道は別れてしまっていたのかも知れぬ。翁がちょうどこの二階の窓から、抜刀斎が通るのをながめた時からな。」
ここで蒼紫は凄惨な笑みを唇に浮かべて言った。
「俺はその頃の抜刀斎は知らぬが、翁は見たのだ。天才が人を斬る技を。最強というものに惹かれているのは、むしろ翁の方ではないのか。」
「わしを見くびる気か。」
「ならば言おう。長州の命により幕閣の重鎮とは言えずとも、それなりの役職についていたかなりの者を斬って歩いていた男を、幕府の隠密の御庭番衆の者がかばいだてする理由は何もないのだ。緋村は今は真人間となって生きているようだから、俺はこれ以上言いたくはない。しかし翁はこの事を時々忘れている。」
「蒼紫。」
「鳥羽伏見の戦いで幕府軍は京都を守らなかった。仕えるのは幕府であっても、感情は動く。この話はそういう事にしておく。」
翁は横を向いた蒼紫を見ていたが、やがて下を向いて言った。
「おまえにとってはわしが生きている事すら間違いか。人は過去を振り返ってばかりでは生きられん。思い直してくれ。おまえ自身の生き方を。出て行っては傷を負って帰ってくる。わしはもう嫌なんじゃ。そういうおまえを見るのは。操もな。」
その時、静かに襖が開いた。お増だ。
「操はん、気がつかはりましたえ。」
翁らが次の間に行くと、操が浴衣着で布団に寝かされていた。藍に柳の模様の地味な寝巻き用のものだ。かたわらに宿の主治医と看護婦が座っていた。かかりつけの者だ。
「どうですか、先生。傷の具合は。」
翁に医者は答えた。
「刀傷は一週間ぐらいで治るでしょう。しかし―――目の方が。」
蒼紫はその時気がついた。操の目に包帯が新たに巻かれているのを。医者は言いにくそうに続けた。
「神経が切れたわけではないのですが、開くと痛がります。多分―――大変申し上げにくいのですが、打撃による一時的な損傷で仮の失明状態に陥っているんではないかと。あと、打撃は眼から頭部にも及んでおりまして、少々意識の混乱が見られますな。しばらくは安静にしておいた方がよろしいかと思います。」
「なんじゃと?!」
あわてた翁が操に駆け寄り、蒼紫は自分が蒼白になっていくのがわかった。あの時の一撃で――――!
「ここ‥‥どこ‥‥。」
操はゆっくりと起き上がった。おずおずとした動作がとても痛々しい。
操はしばらく首をめぐらせていたが、突然包帯を巻かれた頭を両手で抱えて、ふりしぼるように叫んだ。
「あたし‥‥‥あたしなんにも見えないの‥‥‥あたし今どこにいるの‥‥‥。」
翁はあわてて答えた。
「操、おまえは今葵屋へ帰ってきたんじゃ。昨晩蒼紫の跡をついて行ったからこんな事に。」
「いや――――っ!だれも来ないで――――っ!」
「操、しっかりせい。」
「大きな黒いものがそこにいるの。翁も殺されちゃうよ――――っ!」
操はそう叫んで翁を払いのけると、布団の上を必死で手さぐった。盲目の操が何を探しているのかわかった時、蒼紫の心を大きな衝撃が貫いた。
記憶の混乱が生じて―――あの時の修羅になった俺の姿を恐れているのだ。これが普通の怪我なら、操が勝手について来たからと俺はまた操のせいにしていただろう。俺はそういう男だった。何故あの時病院へ行く事をすすめられたのに断った。あの時行っていれば操は――――――!
蒼紫は昨晩背負って歩いた時の、操の身の軽さを想った。あんな小さな、いたいけな体を―――しかし、彼は内心の震えを抑えてその場に立ち尽くしていた。また、そうするよりほかなかったのである。
理性では、彼はその場で操を支えてやりたかった。今日まで築き上げてきた自分の中の大切なものが、一瞬で瓦解したのである。むろん操が悪いわけではなかった。むしろ自分の小心さから、操を形而上的存在として、切り離して考えるように努めていたのだ。
そしてそのように、自分とは遠い所で別の時間を生きている存在として時折考えることは、彼にとっては密かな愉しみだった。
それは、亡きあの先代御頭から、自分に孫娘が生まれたという事を告げられた時から、蒼紫の中で積み上げられてきたものであった。多くの者が過ぎていき、死んでいくのを見てきた彼にとって、「生きている者」とはある時から操の事になっていた。抜刀斎に言われずとも、その事は蒼紫にとっては自明の理であった。あの決闘の後日、自分はあれほどの熱意を持って人を動かそうとは思った事もなかったと、抜刀斎には感動の念さえ湧いたほどである。同時にあらためて、抜刀斎を自分とは全く違う生き方をする男と認識した。
つまるところあの時剣心が言っていた事は、死んだ仲間四人の命よりも、今を生きている操一人の存在の方が重いという事だった。蒼紫はこの種の考えが嫌いであった。彼があの時剣心の首根を狙ったのは、この考えに逆上したからである。今さえよければそれでいいのか。
しかし蒼紫はこの論理に負けたし、実際に技の上でも負けたのだ。そして今はその操さえもくだかれてしまった。―――己れの無力さから。
―――操がただ‥‥‥生きていてくれさえすれば‥‥‥元気に生きていてくれさえすれば‥‥‥‥。
蒼紫はただ、蒼白になった拳を握り締めるより他なかった。そしてきびすを返して立ち去ろうとした。操を脅えさせている以上、自分はこの場にいてはならない人間である。
「蒼紫、おまえどこへ行くんじゃ。おまえのせいで操は―――。」
翁の言葉にお近が涙を流しながら叫んだ。
「そんな事言わんといていてあげておくれやす!操はんは任務に出てけがしはったんどす。そっとしといてあげた方がええ、そない思うて―――。」
「あれがそんなにやさしい考えの男か。逃げとるだけじゃ。」
「翁にはわからしまへんのどす。お増、操はんの面倒はわたしらで見ますよってに。」
「はい。お近はん、私もそうさせていただきます。」
二人手をついて言ったのには、翁は思わずたじろいだ。
「そりゃどういう事じゃ。わしでは具合が悪いのか。」
お近はぴしゃりと言った。
「当然どす。操はんは病人さんなんどすえ。それに、今は操はんの代わりに、あのお方が御頭どす。」
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