(二)
「蒼紫様、またいなくなるの。」
「なんじゃ聞いとったんか。」
パチンパチンパチン。
翁は盆栽にはさみを入れていた。操が何時の間にか縁側の横に立っている。操は苦無を握っていた。
―――また始まったか。
剣心らの前では「ワガママ娘とその爺や」を演じていた翁であったが、本心はこれであった。操はこういう時、少しおかしくなる。その血がそうさせる、とは翁は考えたくなかった。
―――しかしあれは、先代からの血じゃな。
翁はこういう事がある度に思い出す。見事に四本の飛苦無を、操が初めてその手から投げられた日を―――その半年後に蒼紫は葵屋を出て行った。―――本来つながらぬ事をつなげて考えてみせるのは、翁の隠密としての習い性であったが、長年人間を観察してきた結果である。観察しきれているとは思ってもいないが、この頃はなんとなく予測できるようになっていた。―――ただし、操に関してのみだが―――案の定、きつい目を光らせて操は言った。
「蒼紫様がいなくなれば、また私が御頭ね。」
「蒼紫がいようといまいと、おまえが御頭じゃ。今の蒼紫も警察へ行こうが行くまいが、半分囚人みたいな生活しとるからの。」
翁は好々爺を演じきってい。操は眉を吊り上げた。
「囚人?囚人なんかじゃないじゃない。ここにいる蒼紫様は、まだ『自由』なのよ。それを、緋村に負けたぐらいでしょっぴいていく官憲の横暴さには我慢がならないのよ。」
『自由』―――操は白べこに出入りしていた間に、この新思想の言葉をおぼえたらしい。翁はたしなめるように言った。
「しかし志々雄一派に加担したという事は立派な国家反逆の罪になる。それを蒼紫は承知の上でやっとったし、わしも届け出こそ出さんかったが、あやうく蒼紫に殺されるところじゃったんじゃ。操、そういった罪はつぐなうべきだとわしゃ考えとる。」
「翁だって蒼紫様を殺すつもりだったんじゃない。罪って何よ。」
「この問題は、一緒にして考えるのはむつかしいが、剣をとる者の宿命じゃという事ぐらいは理解せんといかん。おまえも頭に血がのぼってそんなものをふりまわすのはよくないのう。」
「わたし―――わたしは。」
操は苦無をふりかざして叫んだ。
「そんな事になったら一生斎藤を許さない!あいつを殺してやるんだから―――離してよ。」
翁は腕をつかみ、ようやく操から苦無をとりあげた。
「道をあやまってはいかん。しばらくこれはわしがあずかっとく。」
操はキッと火のような瞳でにらみあげた。目には涙が光っていた。
「翁にはわたしの気持ちはわからないわ!蒼紫様が監獄に入るのなら、わたしも入る!御頭なんかやめてやるんだから!」
言うなり、操はダッと表へ駆け出した。入口でぶつかったお増が、心配気に翁にたずねた。
「操はん、どないしはりました?」
「すぐにまた帰って来るじゃろ。家出といってもそこらしか行かん。」
蒼紫がまだここにいるからな―――と思い、庭からあがろうとした刹那に翁はギョッとした。何時の間にか、奥の竹矢来の前に和服姿の蒼紫が黙って立っていた。気配が完全に死んでいるので、わからなかったのである。翁を見つめている瞳が、貼りついたように動かなかった。翁はそこに何らかの感情を読みとろうとしたが、盾のように黒い瞳は動かなかった。―――翁はあきらめて思った。
―――剣客としては、天性の目じゃな。
そして思った。―――正義がなかったとはいえ、蒼紫は緋村君の何に負けたのじゃろうと―――その時、一陣の風が吹き過ぎてゆき、蒼紫は口をおもむろに開いた。
「明日、出頭する。今まで迷惑をかけた。」
後のセリフは翁の横に立つお近に対して言っているのであろう。それだけ言うと、蒼紫は離れの方に戻って行った。
―――予想通りのセリフを吐くが、何を考えとるのか以前にも増してわからんようになった。あれでいいものか…。
参禅しても、やはり己を切り詰めていったらしい。それはあの、何があっても己を善に導き善なね光を己に満ち溢れさせ、強く生きようとしていた緋村剣心とは全く逆の生き方のように翁には思えた。精神の袋小路、いやそんな生半なものではない。そもそも、蒼紫は仲間の復讐をしてまわっていた時でも、自分というものをどれだけ計算に入れていたのだろう。その行為を為している自分こそがすなわち己である、という木でくくったような答えが尋ねれば返ってきそうだった。しかしそれでは―――。
―――それでは生きている人間ではない。
翁は思うが、それは言えないでいた。
つまるところ、翁はやはり蒼紫の剣の才能が惜しかったし、もはや剣を持てない身の上になるかも知れぬこの時、この不完全なる魂をこれ以上壊すに忍びなかったのである。
―――回転剣舞六連。操、わしはあの技に破れたのは本当は誇りに思っておる。じゃが、世の道理はそれでは通らぬ。
翁はそう思った。庭の桔梗の花が風にゆれていた。
―――御頭なんかやめてやるんだから!
操はあてもなく、鴨川べりをさまよっていた。
どんどん足は南の方に向かって行く。いつぞや蒼紫を探す旅に出た時も、こうだった。
さまざまな考えが操の頭をよぎった。昔の事。小さい頃の事。今の事。そして。操は今、この一点について考えていた。
―――斎藤。わたしは斎藤には勝てない。あんな年上の男には。絶対に。
新月村で一度会ったきりだった斎藤一という男。影のように剣心らにつき従っていたらしいあの男。剣心はこの男を内心嫌っているようだったけど、やっぱりそういうヤツだったんだ。たった一枚の書類で、私から蒼紫様を引き離す―――もう思い切るべきなの?緋村に負けたから、離れるべきだったの?
―――ダメ。そんな事はできない。
操は四条大橋のたもとの下の河原で、膝に顔をうずめて座っていた。さっきから浮浪児のように、ぼんやりと流れる水面を見つめていた。水の記憶は遠いところへとつながっている。幼い私と蒼紫様が、玉石の人気のない河原を歩きにくそうに歩いている。遠くで砲声の音が聞えている。この記憶。蒼紫は忘れてしまったんだろうか…。「二度と俺の前に姿を見せるな。」って、あの時私にそう言ったんだもの。蒼紫が翁を殺しそうになった時。これからもそんな道を生きていくの…。
すでに陽は暮れかかり、橋は黒い影となって水面におちかかっていた。しかし行き交う人々のにぎやかなこと、橋のたもとの旅館や料亭にはぼんぼりに灯りがともり、早やうかれ三味線の音も聞えてきていた。
操はうつむいて考えた。
―――私はもしもあの時、蒼紫様に助けられなかったら、芸者か乞食でもやっていたかも知れないんだわ、今頃は―――。
「帰ろう。」
操は声に出してスッと立ち上がった。そして思った。
たとえ蒼紫様が私を邪魔に思っていても、私はあの人を守って戦うの。この思いは滝の白糸、私はずっとつむいで生きていくの…。
その時だった。
鴨川の清流の上を、バシャッと音を立てて流れてきたものがあった。
「ありゃあ何だ。」
「人だ、人じゃねェのか。」
操は見やり、思わず手で口をおおった。橋の上ではすでに鈴なりの人だかりがしていた。人々は指差し、口々に叫んでいた。
このような場面に出くわす事には、普通の娘よりは慣れている操だったが、それは異常すぎた。
ゆっくりと上半身半裸の男の死体が、上流から流れてきたのだ。
背中には奇妙な刻印が刃でほどこされていた。見たこともないマークだった。えぐられた傷は深く、中の肉が見えていた。
───見たくない。あれは、人間の仕業なの。
操の顔から血の気が引いたが、すぐに身軽にきびすを返して、駆け出した。新たな事件の予感───張の持ってきた逮捕令状と、操の頭の中でそれは符合したのである。
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