第一章 目無し
(一)
沢下条張は五月の夏の蒸し暑さの中を、京の、七条大橋の上から西に向かって歩いていた。橋のたもとに七条警察がある。そこから出て葵屋へは二条城の東だから、ちょっとした距離になった。
―――ちょッ、めんどくせえ。斎藤のヤロウ人をこき使いやがって。俺ァあのくそ生意気なガキどもの顔はもう、おがみたあらへんのに。あの店のじじいもうるさいしなぁ。左之のアホゥは東京へ戻っていんでしもうたしな。くそ。やりにくいやないけ。
張は鴨川の流れを少しぼんやりと眺めると、肩をいからせて歩き始めた。
斎藤、おらへんのに、あいつも東京へいんでしもうたのに、きっちり命令だけは出しよる。さすが元新撰組っちゅうかいなぁ。それにひきかえ志々雄さんはホンマによかった。ぶらぶらしとっても何も文句言わへんかったし、やっぱあの人の方がホンマもんの男やったなぁ。この筋まっすぐ行ったら由美姐のいた島原や。黒門でもおがまんことには、やっとられんわ――――。
しかし張は、次の横丁を北に曲がった。心の中では悪態をついていても、存外任務には忠実なのである。またそうでなければあの志々雄真実も、自分の部下の十本刀に張を加えなかったし、斎藤も自分の持ち駒に張をとらなかっただろう。しかし不思議なもので、張はそういう己の性分には気付いていなかった。
俺も、あの鎌足ぐらいの才覚の一つもあればな、と思いながら、張は暖簾をくぐった。海外留学生か。あいつは今は外人さん相手の気楽な商売やからな―――わいも外人やが、わいの場合は相変わらずシノギや。
「ごめん。だんさんはいたはるか。」
奥で不機嫌そうな顔をした娘が、帳面から顔をあげた。
操だ。小麦色の肌に明瞭な大きな瞳に小さな鼻と唇、相変わらず黒髪を細いひっつめの三ツ編みにして後ろに垂らしている。張はこの娘が苦手だった。汗くさそうな日に焼けた小娘。
―――こいつ、ひとつの世界を築いとる。
張はそういう言葉で操のきつい視線をよけ、言った。
「わるいけどあんたでは話にならんのや。斎藤先生からの用向きやて、じいさんに伝えてくれへんか。」
「斎藤。あいつ生きてたの。」
「なんやて。よう聞こえんかったなあ。わいはじいさんに話があんのや。」
なんやこいつ、斎藤のことよう知っとったんかいな。得体が知れへんところあるしな―――と張は、奥に消えた操を目で追った。あんなんでも女なんやなぁ。と、張は思わず一人ごちた。「ええ女だけが旅立ってしまうんや。」
「待たせたのう。まあぶぶ漬けでもひとつ。」
そこへ翁が現れた。切り口上で、目が笑ってない。張は大声になった。
「アホ言え。わいかて来たくて来とんのとちゃうぞ。おまえらが危ないっちゅうから来とんのじゃボケ。」
張は奥の日本間に通された。
「翁、お茶。」
操がやや乱暴に湯のみを机に置いた。
「この葵屋も無事修復を果たし、緋村君たちも無事東京へ帰り、悪賊志々雄一派は一網打尽に倒された。これ順風満帆と言わずして何であろう。沢下条君、いつぞやの白べこでの君の高説にはこの翁、感涙ものじゃったよ。で、今日はその続きを聞かせに来てくれたのかね。」
翁の言葉にフン、と張は横を向き、ふところから一通の書状の包みを取り出した。
「まずおまえらに見せんのはこれや。脳天気におまえらはそこで生きとってくれや。」
と、書状を畳の上にパシッと置いた。翁は目を見張った。
「なんじゃこれは―――。」
「逮捕状。ただし、執行猶予がついとる。言っとくが俺が作ったんとちゃうからな。斎藤がとりおった。」
「緋村君なら東京じゃぞ。」
張は思わず声をあらげた。
「何であいつに逮捕状がくんねや。おまえとこのクソ生意気なガキしかおらへんやろ。ま、俺らに関わるからこういう事になるねや。わい、鎌足からはじめて話聞いた時から、アホな男やなあと思っとったさかい。鎌足、あいつ、あたしにとっては無理めの男ね、とか言っておまえんとこ襲うのに決めたとか言うとったし。アホすぎて死にそうやったわ。あいつもアホな男やけど、おまえんとこのこいつが一番アホじゃ。」
「なんですって。」
と操が叫ぶのを、翁は制して言った。
「操、おまえは下がっていなさい。」
翁は操ほど動揺していないようだ。腕組みをしながら翁は言った。
「で、その逮捕状じゃが、君が持ってきているという事は、人手不足という事になるのかのう。斎藤一、元新撰組三番隊長は今はお留守かね。それともこれは俗に言うアリバイかのう。」
「なんやそのアリバイっちゅうのは。」
「何かあれにやらせたい事があって君が来たとみたが、ちがうのかのう。できなければ首に縄をしょっぴいてでもやらせる――――とまあ、新撰組の流儀から言えばそういう事になるのかの。」
ここで翁は音をたてて茶をすすった。張はあきれた。
「おっさん呑気な顔しとるが、今は明治の世の中やぞ。官憲が来たらおまえんとこの店はもう終りじゃ。」
翁はあごひげをなでて答えた。
「フム。それもいいかも知れん。この翁も京都での長勤め、そろそろ終止符を打ってもいい頃と思っとったんじゃ。君、あれをしょっぴいていくのなら今のうちじゃぞ。最近猫の子のようにおとなしいからのう。まあ相手が君ならどう出るか知らんが。」
「俺は飛天御剣流に負けた男なんぞと殺りおうたない。」
「そう言えば君も負けとったしのう。」
張は肩をすくめた。
「負けたもん同志仲良うするのもごめんや。で、簡単に言やあ一度サツに顔出せっちゅう事や。」
「それだけで済むとも思えんのう。ま、この件は了解した。」
「当然や。あ、わいはサツにはいとらへんさかいに。警視庁からなんやわけわからんのが来とるわ。そいつが斎藤の代わりに話するてよ。」
「なるほどの。まあ今日はゆっくりしていきなさい。」
帰れとも言わずに翁は席を立った。が、張にはわかっている。京でこの言い草は帰れっちゅうのと同じことや。張は机の上の茶を一気に口の中に放り込んだが、あやうく吐き出しそうになった。
「なんや。出がらしの味や。」
あの小娘、と見回すと、通された日本間からガラス障子越しに中庭が見えた。
「ヤッ、ハイッ。」
と気勢をあげながら、白木のくいに小娘――操が手裏剣苦無を無心に投げていた。そのずっと奥に竹矢来があり、その裏に小さな離れがある。そこに一人の男がこちらに背中を向けて、座っていた。何か経机に書籍らしきものを置いて読んでいるらしいが、あいにくふすまで半分遮られていて、よく見えない。
―――あれが四乃森蒼紫っちゅう男やな。おるんやったら出てきて話せんかい。
張にはしかし、この場の図が何とも奇妙な光景に思えた。こちらに背を向けた男は、中庭の操を黙殺しているようなのである。また操も無関係に己の技を磨いているらしい。
―――なんや変な空気が渦巻いとるな、ここは。
張は座布団をけって立ち上がった。かの漱石先生ならば、「非人情の世界」とでも表現するであろう世界だが、あいにくと明治十一年春、庶民派の張にはそんなことはわからない。
―――あんなんでもひとつ屋根の下で暮らしてるんやさかい、夜は乳繰り合っとるんとちがうんけ。
と、春画的興味でこの場面を結論づけた。さらに張は蒼紫について品評をくだした。
―――ま、由美姐みたいな女は相手にできんちゅう事やな。鎌足もバカにしとったしなあ。こいつらにないもんであの娘にあるのは、いわゆる若さだけや。つまり、それだけの男っちゅうことや。
「アホらし。」
張はうそぶきつつ、暖簾をくぐり外へ出た。
張は蒼紫の剣心との対戦の話を、実は瀬田宗次郎からのまた聞きでしか聞いていない。
「僕もよく知らないんですが、――――多分同じ技で負けたんじゃないかなあ。」
とだけしか知らないのである。それを男女関係にまで置き換えて理解しているところが張に真骨頂であり、またそういうわかり方しかできない男なのであった。こういう単純なものを信じて生きているところは、あの左之助と似たところもあるが、この天真爛漫さは明らかに蒼紫にはなかった。張は空を仰ぎ見て、店の空気から逃れてせいせいしたように、深呼吸して言った。
「せやけど、ええ天気やなあ。」
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