(二)
真田忍群らが潜伏して待っているその地は、扇状地であり、下の草原は沼地の泥炭地であった。
その終点ともいえる崖の上には、小さな東屋があり、そこに江戸城御庭番衆の御頭である、後に先代と呼ばれる老人が軟禁されていた。
その横には、御沙薙がついていた。
刀を抜き払い、御頭の老人を監視していた。
今その東屋に、辰巳が巴を抱えて入ってきた。
「御沙薙、忘れ物だぞ。」
辰巳は言うなり、気絶した巴を乱暴に畳におろした。
御沙薙はニヤリとした。
「あんたも江戸方には、いろいろ遺恨があるらしいね。」
「あの若造は間もなくやってくる。お前、出たほうがいいのではないか。」
「そうだったね。手足の二本も奪った後、私の飼い犬にでもしようかしらね。」
御沙薙は笑顔で恐ろしいことを言った。
すると、黙して座っていた老人は、口を開いた。
「そなた、何が狙いだ。わしと蒼紫の命を盾に、長州にでも尻尾を振るのではないのか。それとも水戸の攘夷派かな。」
御沙薙は老人に叫んだ。
「年寄りは黙ってな!」
「貴公を殺すことがわしにはできる。蒼紫にもできるだろう。わしはそれが見たいので、ここに座っておる。行って蒼紫の相手をしてやれ。」
「なんだと・・・・。」
御沙薙は老人の言葉を否定するかのように、高い声で笑った。
「この私が蒼紫に負けるだと・・・・この私が!命請いをするのは蒼紫のほうだ。そこで座って見ているがいい!」
御沙薙は言うと、戸外へ躍り出た。
蒼紫は馬から降りると、泥炭地の様子をうかがった。
―――十絶の陣。御頭のいるところまで、十数人の盾がある。
蒼紫は小太刀をかまえた。
待つこと数間。
まず、彼方から鎖釜が飛んできた。
「お命、頂戴。」
鎖釜を振りまわしている忍びが言った。
――これは、囮だ。
蒼紫は鋭く苦無を投げた。
「うがっ、ごぼっ。」
鎖釜の男の喉笛に苦無は突き刺さった。
その間も蒼紫は草むらを移動し、もう一人の忍びに襲い掛かっていた。
「ううっ。」
蒼紫の小太刀の一閃にまたひとり、忍びが倒れた。
そこへ手裏剣が間を待たず飛んでくる。
蒼紫は小太刀でそれをよけた後、また刀をひらめかせた。
足場の悪い泥炭地で、蒼紫は必死で刀をふるった。
忍びは襲うたびに増えているかのようだった。
―――これだけの人数をただ消耗させるために置くのか。あの御沙薙という女は。
蒼紫は数十人を切り伏せて、泥炭地から扇状地の中腹にまで出た。
蒼紫の脳裏に、危険を知らせる信号が点滅した。
―――いる。
敵が、いる。
蒼紫は一歩を踏み込もうとしたが、その歩みを止めた。
口に苦無をくわえると、もう一刀をすばやく抜いた。
二刀流の構えになった。
空はまだ明るいはずなのに、異様にこの扇状地の空だけが暗い。
「後をとったぞ。」
銀礼の声がした。
蒼紫の体がその瞬間、何かに引きずられるように傾いた。
―――斬鋼線。
目の前の坂の先に、御沙薙が立っている。
御沙薙は片腕をスッと虚空に伸ばした。
腕の先から何万羽の蝶がひらひらと、極彩色の色をしながら舞いはじめた。
幻術であるのはわかっていた。
しかし蝶の動きは、狂うように目の中に飛び込んでくる。
御沙薙は言った。
「緩慢に、蝶に包まれながら、死ね。」
御沙薙は言うと、刀を構えた。
銀礼は斬鋼線を引きながら、釜状の武器を構えた。
「こうして、前後に敵がいれば、いかな御庭番衆でも、破れまい・・・・抜けられぬぞ、蒼紫。」
びょう、と音をたてて銀礼の手から武器が飛んだ。
蒼紫の首をその武器は狙っていた。
ザン!
鈍い音がして、蒼紫の首は血潮をまいて、地面に転がった。
鰐淵銀礼は狂喜した。
「やったぞ・・・・蒼紫を俺はやったぞ!はははははははっ。」
だがその時、闇の中で蒼紫の声がした。
<<その技は見事・・・・だが貴様の技、真の円月の陣ではなかろう・・・・・。>>
「貴様っ。」
銀礼はあわてた。
あわてて地面に落ちた首を見返した。
―――変わり身!
蒼紫の首と思ったものは、木の根であった。
「あわてるんじゃないよっ。」
御沙薙がどなった。
御沙薙は言った。
「幻術には幻術を・・・・という事かい、蒼紫。だがおまえの体には斬鋼線がかかっている。どこに潜もうが、我らには無駄だ。そして、おまえの幻術などすぐに敗れる幻術を我らは用意している。」
銀礼は御沙薙の言葉に、すぐに体勢をたてなおした。
そうだった、ここでやるんですな、あねさん・・・。
「こういう、幻術をね!」
御沙薙は叫んで斬鋼線を引いた。
ボコッ、と音がして、地面の中から現れたものは――――。
その瞬間蒼紫の中で、何かが壊れた。
それまで平静を保っていた外側が崩れ落ち、中からどす黒い感情が噴出した。
―――外法。
斬鋼線の中心におかれ、虚空に吊り下げられたものは、斬り刻まれた幼い操の、変色した死体であった。