操は目を覚ました。
――私は今、京都の葵屋にいる――あの頃のことを今夢に見るのは、何故かわかっている。

自分は寂しいのだ――あの十本刀と戦って勝利し、あの人も戻ってきたというのに、あの人は決してもう昔みたいに私を見ようとはしないからだ。
昔みたいに。
あの「おいで」と呼んでくれたあの頃みたいに。
あの時私はまだ六歳だった。

操は天井を見つめ、むくりと布団から起き上がった。
私もう十七歳になるんだわ。

どうしてこの考えが、頭の上で重苦しくのしかかってくるのか、操にはわからなかった。
彼女は本能で感じている。
昔に比べて鼻筋が通ってきた自分の顔、大きくなってきた自分の目、スラリと伸びだした脚や手、なめらかになってきた肌の曲線。
けど、それらの存在が彼女の「蒼紫様」に向かうと、こなごなに無価値にものとして、打ち砕かれてしまうような気がするのだった。
また、彼女の「蒼紫様」が、そこにのみ彼女の存在価値を見出したとしたら、心が裂けてしまう気がするのだった。

だってそれだと、私に「おいで」と言ってくれたあの優しい「蒼紫様」は、はじめからいないことになってしまうもの―――。

幼い自分が胸の中で叫んでいた。
操は障子を開けて夜気のおりる廊下を歩いた。
水が飲みたいと思った。
京の町屋は奥に深い。葵屋も例外ではなく、操らが暮らすお勝手の廊下の突き当たりにも中庭がある。
中庭から見える中空には、白い玄月がかかっていた。
さらに行ったつきあたりに井戸と水のみ場がある。
操は思った。

――そう言えば、蒼紫様の包帯をもう、翁はとりかえなくてもいいんだわ。

そう思ったのは、店中にこの間まで漂っていたヲキシフルの匂いを今ツンとまた、鼻にかいだせいかも知れなかった。二日前までいた剣心らは、十本刀の志々雄とやりあったせいで、体中傷だらけで、特に弥彦はかわいそうだった。と、操はふっと少し微笑んだ。恵さんは容赦なく消毒薬を刷り込んでいたっけ。あの人、しっかりしていたなあ。でも、あの人―――操の水のみ場のひしゃくを持つ手が止まった。

なんで蒼紫だけは診たくないって言って、障子を開け放って出て行ったんだろう。「悪いけど操ちゃん、葵屋さんは葵屋さんだけで面倒みてあげてね、これお薬だから」って、私の手に薬ビンだけ渡して。

翁がその薬瓶を操の手から取ると、蒼紫の部屋へ一人で行った。「おまえは来るな」と言い残して―――。それから二週間。毎日翁は左之助たちと酒盛りやっていたけれど、翁はずっ蒼紫様の傷の具合をみていたんだ。時々私は―――操は思った。

時々私は、みんなから取り残されている。

翁は多分知っている。東京に居た時の蒼紫のやっていた事。本当は全部―――あの恵さんも、東京から来た美人の女医さんも、蒼紫の事知ってたみたいだった。私は―――知らないでいた方がいいんだろうか。全部は。薫さんの話だと、剣心と対決したって事しかわからなくて…。
いつからだろう、蒼紫様との距離が開き出したのは…。

蒼紫とその仲間の式蒸や般若たちは、操をこの葵屋に預けてからも、半年に一度ぐらいは顔を見せていた。さかんに全国各地と東京を行ったり来たりしている様子だった。あれは、明治の六年ぐらいまで…あたしが十二歳位の時まで…御一新で預けられてから、ほぼ五年間。蒼紫たちは、影のように操の支えになってくれていた。でも、そのある時―――と、操は思い出していた。
操が翁に習って花を生けていた時のことだった。花器を床の間に飾っておいたら、夕刻になって軒に花が一本一本全部抜いて半紙の上にきれいに並べられていた。花器の水も全部捨ててあった。
「ひどい。翁、いくら下手だからって―――」
と言って、操が振り返ると、後ろで翁が棒をのんだようになって立っていた。とても嫌なのを見たような顔をしていた。あの時、蒼紫たちは帰ってきていた。翁は私が般若君の教えで、はじめて手裏剣を投げてみせた時も、あんな顔をしていたな。
あと、赤いぽっくり下駄が。
操は瞬間身をちぢこめた。
いや。あれだけはいや。あたしが履いていた、六ツの私が履いていた、赤いぽっくり下駄が、とても綺麗なままで、やっぱり白い紙に乗せて、箪笥の上に置いてあったの。みんながいなくなった時―――蒼紫様がずっと隠して持ってたの?ダメ。バラバラになってしまう。綺麗な丹塗りの赤い下駄。あの時蒼紫様は、二十七歳ぐらいだった。あの花みたいに、バラバラに―――私は私の「蒼紫様」に戻さないといけないの。
と、そこまで考えた時、突然に操の目に涙が湧いてきた。ある感情が不意に忽然と、彼女を襲ってきたのだ。

――どうして。どうして、くやしいの。何に向かってくやしいの。去っていったあの人たち…剣心たちに私たちは、決して勝てなかったから、くやしいの?でもあの人たちは仲間なのに―――私たちの命を救ってくれたのに、蒼紫様を救ってくれたのに、どうして私はくやしいと思うの。

操は小さく震え、そっと腕で涙をふいた。
こんな涙は誰にも見られたくなかったのだ。


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