(四)

巴はゆっくりと目を開いた。
あのお堂から、自分が運ばれ、日本間の布団に寝かされていることに巴は気づいた。
―――私は一体・・・・・・。
巴は全身が疲労していて、身動きするのにも痛みが生じることに気がついた。
あの妙な儀式のせいだとわかっている。
―――でもあれは、一体何のためだったのだろう・・・・・。
巴には理由がわからないでいた。
ただ、自分は間違いなく「九の一」としての烙印を押されたのだということはわかった。
静かな絶望が巴を襲った。
巴は立ち上がり、次の間へ入った。
誰か座っている―――誰?
巴は目を見張った。
蒼紫が刀を抱いて、目を閉じてそこに座っていた。
他の人間はいなかった。
巴は声をかけようとしたが、喉に声が張り付いてしまってうまく声が出せなかった。
あの恥ずかしい肢体を見られた、というだけではない。
―――私にはこの方の生きている世界は、耐えられない。
一度は蒼紫に望みをかけた巴であったが、御庭番衆の生きる世界の片鱗をあらたにかいま見、その修羅は巴には耐えられないものであった。
耐えられず、ついていけない―――巴は静かに蒼紫の前に座った。
蒼紫が目を開いた。
「気づいたか。」
蒼紫が巴に声をかけた。
巴はようやくの思いで言った。
「はい―――。」
「京への出立は明日。闇の武の連中が迎えに来るだろう。」
巴は震える唇をかみ締めた。
―――私は泣きたい―――なりふりかまわず、今この場で―――。
しかし涙が流れるのを、巴はこらえた。
しばらくしてから、巴は口を開いた。
「私・・・・私・・・・本当は逃げたいのです。このまま何処かへ・・・・できない事はわかっています。」
「・・・・・・・・・。」
「私にはかわいい弟がいます。弟のためにも、私がしっかりしないといけないのです。」
蒼紫は言った。
「残酷な事を言うようだが、あなたはここから抜ける事はできない。秘密を知った者は任を解かれることはまずない。」
巴は内心震えながら、やっとその言葉を口にした。
「では・・・・・では・・・・・私はやはり・・・・・これから先は・・・・・・女郎ではなく・・・・でも女郎のように・・・・・。」
「―――母も女郎だったことがある。短い間だったが。」
巴は目を見張った。蒼紫がそんな風に自分のことを話すなど、彼女は思いもよらなかった。
巴は少しうれしくなって、言葉を継いだ。
「では、あなた様の母上様も、やはり忍びの方だったのですね。私のように。」
「違う。母は武家の出だった。だから、あなたを見ていると、母を思い出す。」
巴は蒼紫の言葉に、胸を打たれた。やはり、この方は――――。
「あの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「なんだ。」
「私は・・・・・・あなた様のためならば、がんばれると思います。忍びの女として・・・・・・。」
「清里という男のことはどうなる。」
「清里は私を抱きました・・・・・婚約したばかりのある日、茶店へ行くと、そこは――――。」
「――――――。」
「汚されたと思ったのです。どうして私、うれしくなかったんでしょう。清里は私のことを愛してくれたはずだったのに、当然のように私を―――私を――――。」
蒼紫はさえぎるように言った。
「もうそれ以上は言葉にしないほうがいい。」
巴の目からどっ、と涙があふれ落ちた。
堰を切ったように、巴は蒼紫に言い募った。
「私には仇は討てません。その緋村抜刀斎という人に、私の腕では勝てないのです。何故私が―――私が。」
蒼紫は立ち上がって奥の間へ行くと、一振りの黒塗りの懐剣を手に戻ってきた。
巴は目を見張った。
「それは――――?」
「これをあなたに持っていてもらいたい。母の形見だ。」
蒼紫は巴の前に懐剣を置いた。
「母はこれで自害をしなかった。あなたにも、そうしてもらいたい。あなたもこれを自分には使わないでほしい。」
巴は蒼紫の真意を察した。
生き延びて、また江戸に戻ってくる―――この私が。
巴は震える手で懐剣を受け取った。
少し鞘を抜いてみると、白明な光を宿す剣に、自分の顔が映りこんでいるのが見えた。
巴が顔をあげると、蒼紫が無言でうなずいていた。
それを受け取れ、と言っているのだ。
しかし巴には、蒼紫が自分のことを許してくれたように見えた。
巴はたまらず、蒼紫にすがりつくようにその身を投げかけた。
―――このような事を、清里が言ってくれていたら・・・・・・・・・・・・・・・・・!
巴は思った。
今ここで抱いてほしい、あの忌まわしい儀式のことを忘れさせてほしい・・・・・・。
巴は全身で、蒼紫に愛情を訴えかけようとした。
しかし蒼紫は、巴の顔を少しあげさせて、わずかに唇を重ねただけだった。
それも一瞬のことだ。
巴には、鳥の羽が触れたかと思ったほどだった。
蒼紫はすぐに巴から離れた。蒼紫は言った。
「すまない。出来心だ。忘れてくれ。」
立ち上がって、蒼紫は障子を閉めて出て行った。

あの方とはこれきり・・・・巴は思った。必ず江戸に戻ってあの方にもう一度まみえる・・・・。
その時、緋村抜刀斎という男に対して、巴は初めて憎い、という感情を抱いた。
その者に対して、愛情があるそぶりを私は見せてやろう、そうすれば隙がない男にも隙が生じるというもの―――。
そして、その者に抱かれることも私は考えよう。
巴の頬に、謎のような笑みが浮かんだ。

巴はその時初めて、確かに忍びの女となったのであった。

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