(二)


その日の昼下がり、巴は薪を離れから台所へ移動するのに、一人で運んでいた。
何度目かの往復で、積まれた薪の山がなくなった頃、その男は現れた。
「よう。」
築地塀によりかかるようにして、薪を持った巴の前に、黒装束の男が立ちはだかった
目だけが覆面の上からのぞいている。
忍びというほかないいでたちである。
巴は眉をひそめて立ち去ろうとした。
「・・・・失礼します。」
巴は会釈して男をよけようとしたが、男に肩をつかまれた。
「あんた、なんて名だっけな。」
「・・・・巴と申します。」
「巴か。ふふふ、木曾公の妾と同じ名前だな。もっともあんたは静御前のほうが似合ってるぜ。」
「・・・・そこを通してください。」
「俺ともう少し話をしようじゃないか。俺は中条って言うんだ。覚えててくれっかな。」
巴はなれなれしいと思ったが、黙り込んだ。
中条という男は巴に顔を近づけて、ささやくように言った。
「三日後、あんたはたいした事をやらされるんだぜ。知ってるかい。」
巴は顔をそむけながら答えた。
「・・・・いえ。」
「ほう、そうかい。俺は闇の武の者だが、闇の武でもそんな事はしねぇ。辰巳のおやじもあきれていたぜ。何のためにそんな事をするんだ。あんたは無傷なまま、京にのぼったほうがいい。ま、処女の味っていうのかなあ。そのほうが緋村って男をしめるのには、ちょうどいいってもんだ。あんたもそうだろうが。」
「・・・・・・・・・・。」
「まあもう決まっていることだ、仕方がねぇ。あんたも、真田の鬼姫には気をつけたほうがいい。あいつぁあんたのツラの皮をひんむくかもしれねぇぜ。なにせ、俺から見てもここの若旦那に岡惚れときている。まあそういう女しか、御庭番衆では生き残れないってことなんだがね。」
「お話、よくわかりました。失礼します。」
「まあ待てよ。」
と言うなり、中条は巴を抱き寄せようとした。巴の手から、薪の束がすべって地面に転がり落ちた。
「何をなさいます!」
「無粋だねぇ。ちょっとぐらいいいじゃねぇか。緋村って男を何とかするつもりなら、これぐらいどうってことじゃねぇ。」
と言いつつ、中条は巴の着物の襟下に右手を差し入れようとした。
「おやめください。」
巴が中条ともみあっているその時だった。
鋭い風切り音を立てて、苦無が二人の間に飛んできたのは。
中条は間一髪でそれをよけた。
苦無は築地塀に深々と突き刺さった。
「―――誰だ!」
中条は叫んで、苦無を塀から引き抜いた。
見回した中条は、ある人影を認め凍りついた。
「あ、おめぇ・・・・・。」
蒼紫が二人からだいぶ離れた、庭の木の影から姿を現していた。
蒼紫は黙って立っていた。だが手にはもう数本の苦無が握られていた。
中条の顔から血の気がひいた。中条は思った。
こいつはやる時はやるんだったな・・・・・・。
「けっ、くそったれっ。」
一声叫ぶと、中条は巴の前からあわてて姿を隠した。
中条が姿を消すと、蒼紫もその場から立ち去ろうとした。
「もし、あの―――。」
巴には自分でも思ってもみなかった一言だった。
しかし、口をついてその言葉は出てしまった。
「助けていただいて、ありがとうございます。お恥ずかしいところをお見せしまして・・・・。」
巴は軽く礼をしたが、蒼紫は背中ごしにだまったまま遠のいていく。
巴はすがるようにもう一言言った。
「今の方はあなた様のお仲間なのでしょうか・・・・・。」
蒼紫の背中は立ち止まった。蒼紫は言った。
「違う。おまえは今の男たちと京にのぼることになる。道中は気をつけるのだな。」
「は――はい。」
巴の頬にわずかに血の気がさしてきた。
巴は自分が、生娘のように蒼紫のその一言でうれしくなっていくのを感じた。
―――そんな、そんな事を思ってはいけないわ・・・・私には清里さまが・・・・・・。
巴はそう思い直していたが、自分の心臓が早鐘のように鳴っているのを止めることはできなかった。

結局巴は、御庭番衆の普段の生活ぶりをつぶさに観察して、始めに思ったように、やくざ者の集まりとは違うのだということがわかったのだった。
特にこの蒼紫という若者は、武士と言ってもいいような生活ぶりで、その師らしい御頭と呼ばれる老人といる時は、本当に武士の親子のようであり、巴は家を出て行った父親の姿をそこに重ねたりしたのだった。
後に緋村抜刀斎の妻に納まった巴は、女性ならではの驚くべき順応性を身につけていた。
郷に入れば郷に従えという言葉がある。
巴はまさしく、その言葉どうりの女性であり、何の武芸もたしなまなくても、ある種の強さを身につけていたのであった。
―――私はこの蒼紫という方にひかれている。
巴はそう思ったが、それはやはり表に出してはならない感情だと思った。
むしろ、彼女は自分のそんな気持ちを責めた。
―――どうして、支えがないと崩れてしまう切花のように、私の気持ちは誰かに向かうのだろう。そうしないと、立っていられないように。
巴はそう思い、この感情が過ぎ去ることを祈った。
もうすぐ私はここから京に向かい、その緋村という剣客のそばにいることになる・・・・・清里さまの仇を討つために。
しかし彼女にとっては、清里も緋村という剣客の事も、すでに心の重荷になっていた。
第一、剣では緋村という剣客には勝つことができないと、再三にわたり言われている。
絶望の中で、自分を助けてくれる蒼紫という青年を見出したとき、巴がそれにすがろうとした気持ちは自然の成り行きであったと言っていいかも知れない。
今の場面でそうであったように、蒼紫がもしも自分を助けてくれたなら・・・・と巴は思っている。
たとえそれが実現不可能な夢であっても、巴にはそれが今や心の支えなのであった。
こうして巴の立場を考えたとき、そのありようは、先にあげた御沙薙とはまったく逆と言ってもいいであろう。
御沙薙は自分の立場を譲らない娘であったが、巴は自分を曲げて周囲に合わせてしまうことにあまりにも慣れた女性であった。
従って巴は、蒼紫が立ち去った後、静かに面を伏せて涙ぐみ、薪を拾い集めて、また台所にまで運ぶという動作を繰り返した。
蒼紫への気持ちは、徒花のようにうたかたに消えていくのを、巴は待った。
―――縁はどうしているかしら・・・・・。
巴は弟のことをまた心配した。

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