第二章 仇花
(一)
空に灰色の雲がたちこめる湖畔を、二頭の馬が駆けていた。
先を行く馬には、美少女が乗っていた。少女は長い髪を頭の上で二つに分けていた。
真田忍群を統括する)だ。
その顔には、美しいが、ある種の冷たさが同居していた。
彼女の後ろを馬を駆っているのは、)と言って、御沙薙の参謀を勤めている男だ。
銀礼は忍者としては、整った容貌のほうであろう。
御沙薙とはすでに男女の関係になって久しいが、御沙薙のことは御頭として立てることを忘れない男だ。
しかも銀礼はそこそこ腕が立ち、御沙薙を常に守っているので、この二人につけいる隙はどこにもなかった。
と、御沙薙はスッ、と虚空に右腕を伸ばすと、腕から何かを二連、鋭い音をたてて空に放った。
湖岸に群れていた、鴨の群れがいっせいに飛び立った。
中の一羽が一声鳴き声あげて、地に落ちていく。
鴨の首には苦無が深々と突き刺さっていた。御沙薙が投げたものだ。
横に並んだ鰐淵銀礼が言う。
「見事なもんですぜ、御頭。」
御沙薙は銀礼に鼻で笑って答えた。
「これぐらい、なんてことはないさ。」
馬から降りると、御沙薙は小太刀をスラリと引き抜いた。御沙薙は叫んだ。
「そこにいる男。江戸の者だね。帰って伝えな。真田のものは、召集に応じるとね。」
御沙薙は言うや否や、刀を投げた。
草むらの中の影が動いた。
御沙薙はその様子にしのび笑いを漏らした。
「ふふふ・・・刀が刺さっても声もあげないんだね。その忠誠、我ら真田の者にもほしいぐらいだ。」
銀礼が御沙薙に言った。
「御頭、あまりいじめない方が。あれもいずれは我が配下となる輩かも知れませぬ。」
「そうだったね。まずはうるさい爺いを始末しないといけない。聞こえているか、そこの者。我らはあの四乃森という男が後継者というのは、認めないからね。」
影は声もなく、その場から立ち去った。
銀礼は言った。
「そこまで言ってよかったんですかい。」
御沙薙は答えた。
「江戸城の御頭に報告するか否かは、あの連絡係の心づもりひとつ。ただ上京するにせよ、こちらの意思は伝えておこうと思ってさ。」
御沙薙は手にした苦無を木に向かって投げた。
鋭い音とともに、苦無が幹に突き刺さった。
「江戸にいる奴らにあごで扱われ・・・・。汚いことはみんな私たちがやるんだよ。」
すさまじい勢いで、次々に苦無が突き刺さっていく。
「蒼紫・・・私と行動をともにしてくれたなら・・・・・。」
御沙薙は激しい思いを断ち切るようにそうつぶやくと、来た時のように馬に飛び乗った。
「江戸に行く。銀礼、皆に伝えるんだよ!」
御沙薙は言うと、馬を駆った。銀礼も後に続いた。
御沙薙がつぶやいた言葉を理解するには、これより以前の事を少しさかのぼらないといけない。
彼女は何度かの真田忍群の召集で、御庭番衆や蒼紫に会っていたのである。
むろん、仕事としてであり、蒼紫も御沙薙には忍群の頭目として以上のことは何も求めなかった。
しかしそれを御沙薙は、逆恨みしていた。
そして、蒼紫についてのある情報をつかみ、自分がその立場にないことについて、深く嫉妬していたのである。
だが、まだこの時点では、御沙薙は自分が新たに御庭番衆の御頭となり、蒼紫を配下に従えて、銀礼との関係がそうであるように、自分の好きなようにする、といった未来図を描いているに過ぎなかった。
そう、彼らはこの幕末のご時勢を待っていたのである。
戦国の世でそうであったように、彼らは徳川幕府というものに反逆する意思を、三百年の間隠匿し温存してきた。
表面では御庭番衆に忍従するように見せかけながら、その裏では下克上の遺志を伝えてきたのである。
それはしかし、蒼紫も察知していて、だからこそ彼は御沙薙に対して必要以上の距離を保っていたのであった。
御沙薙はその蒼紫の真意を知らない。
ただ、彼女は手の届かないものを求めるように、蒼紫を求めていた。
初めて蒼紫を見たときから、御沙薙は蒼紫のことが好きであった。
しかも蒼紫はただ美しいというだけではなく、御沙薙も一目置かざるを得ないほどの術を体得していた。
御沙薙は、あれほどの男に抱かれるのが女の幸せであると考えていた。
しかし誇りが高い彼女は、蒼紫に頭をたれて自分と一緒になるように言うことは、到底できないのである。
真田忍群の跡取りの娘として、何不自由なく育てられ、その天才とも言える技を持っていることで、蒼紫のほうから自分に申し入れてくる局面が彼女の理想であり、蒼紫が自分にひざまずくこと、ひれ伏すことを考えるだけで、彼女の気持ちは沸き立つのだった。
蒼紫を我が物とすることができるならば、二人合わせれば無敵と言えるのではないか。
御沙薙が考えている残酷な場面はそれだけではなかった。
―――その巴とかいう女。私には邪魔だ。
御沙薙にはわかっていた。その女、ただ間者として使うだけではない・・・・・誰かが我らを試すために御庭番衆に近づけたのだ。
きっとあの老人たちだ。
ならば、辱めてやる・・・・と御沙薙は思った。
その場面に居合わせても、あの蒼紫は無表情でいられるだろうか。御沙薙はそれはできないはず、と考えた。
彼女もまた、蒼紫の出自を知る数少ない者の一人だった。
できない・・・・できないはずだ。
だからこそ、あの女なのだ。
御沙薙は残酷にその一言を付け加えた。
―――私はその時のおまえの顔が見たいのだ。
まさしく通称「鬼姫」の名にふさわしい、洩矢御沙薙であった。
かの聖書の逸話、聖人ヨハネの首を請うて、その生首に口付けをしたという王女サロメと同じ血を、御沙薙は有しているのだった。
決してそれでは蒼紫に愛されないことを、御沙薙はもちろんどこかで知っている。
しかし御沙薙は、自分を曲げてまで蒼紫に折れるということを、絶対にするつもりはないのだった。
そんな御沙薙の理解者が、今横にいる鰐淵銀礼であったが、この者は残念なことに蒼紫ほど美しくなく、また天賦の才もなかった。
御沙薙にはその事実も、認めねばならないが非常に腹だたしい事実だ。
そんな御沙薙にとって、ある忍びの者から聞いた情報は、まさに狂乱するにふさわしい内容だった。
―――この私が、子供に負けるだと。蒼紫がそんな者に思いをかけているなど。
絶対に認めない、と御沙薙はギリ、と唇を噛んだ。
蒼紫が子供に懸想しているらしい、という事は彼女にとって忌まわしいものでしかなかった。
彼女は想像の中で、蒼紫を次のようにののしった。
―――それが一人前の男のすることか。
彼女の頭には、今はそれらの事への報復しかなかった。
それでますます蒼紫に嫌われることになっても、御沙薙はそうするつもりなのであった。
真田忍群の本拠地へ帰りつくと、御沙薙は僧侶の者を近くに呼んだ。
来る日のための準備―――真田忍群だけが戦国の世から伝えてきた、秘術のためであった。
―――まずは、手近な巴とかいう女から落としてやる。
その為に古老らはその巴という女を引きずり込んだはずなのだ。
御沙薙の冷徹な判断は、当たっていた。
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