(三)


雪代巴は、江戸東町奉行所の門の前まで来て、弟の縁に言った。
「ここから先は私一人で行きます。おまえは外で待っていなさい。」
「ねーちゃん・・・・。」
縁は不服そうな顔をしたが、巴に従った。縁は言った。
「清里さんの仇を討つんだろ、ねーちゃん。」
「・・・・・・・・・。」
「ねーちゃんが清里さんと祝言をあげていたら、出ていった親父も喜んだだろうによ。そうだろ、ねーちゃん。御家人と言っても俺たちの家よりも禄高が高いんだ。親戚のおばさんもそれが目当てで、縁談を勧めていたんだもんなあ。」
「・・・・清里さまの消息がわかればいいのです。」
「ねーちゃん、京で死んだって聞いたろ。長州藩のヤツらに殺されてさ。仇、討ちたいよなあ。浪人ものでも雇ってさあ。お奉行からの話ってきっとそれだと思うな。」
「おまえは来てはなりませんよ。」
巴はそうきつく言うと、奉行所の門をくぐった。
建物までの中庭を歩くと、植木職人たちが剪定しているのが見えた。
巴はその中の一人の青年に、自然と目が吸い寄せられた。
―――清里さまに似ている。
じっ、と見つめそうになるのを、あわてて巴は視線をはずした。
植木職人にもあのような者がいるのだ。
しかし、確かにそうであった。死んだ清里と年や背恰好がその青年は同じぐらいに見えた。
しかも、巴には清里よりもその青年が美しく思えた。
―――私は何を・・・・・。
巴はかすかに頬に血を上らせ首を振って、前を向き直った。
あのほおずき市でほおずきの鉢を買った日の次に、また会おうと清里が申し入れたときだった。
暑い夏の日の午後だった。
巴はそこがそういう場所だとはと知らなかった。
呼び出された茶屋の一室で、巴は清里から逃げられなかった。
祝言をあげる前なのに、清里は私を―――京にこれで安心して行ける、と清里は事が済んでから巴に言ったのだった。
今もその事を思うと、薄氷を踏む思いがする。
―――私が清里さまの仇を考えるのは、私が武士の娘だから。決して清里さまに体を奪われたからでは―――。
清里とはそれきりになったのだが、今私は清里の子を孕むこともなく、新たに血を流すことを求めている。
してみれば、私は清里のことをそれほど好きだったらしい・・・・・巴は自嘲めいた笑いを片頬に謎のように浮かべると、奉行所の本屋に入った。
「雪代巴、参りました。」
「お待ち申しておりました。どうぞこちらへ。」
通された客間は、武士同士の話合いをするような広い場所ではなく、庭に面した小さな部屋だった。
町奉行とその付き添いの者が巴を待って座っていた。
町奉行はでっぷりと貫禄のいい中年の武士だった。奉行は言った。
「さっそくだが、清里明良と京の勘定方を始末した男の名が判明した。」
「はい。」
「緋村抜刀斎という男だ。出身地は不明。今は長州藩の桂小五郎につきしたがっておる。腕は非常にたつ。だが、うわさによればまだ少年のような男らしいという事だ。そこでだ―――。」
巴は考えていたことを、ここで一気にはきだした。
畳に手をつくと、巴は必死になって答えた。
「お奉行さま、仇を討ってもらいたいとは申しません。ただ、その者をこれ以上、幕府方の者を襲うことを許さないようにしていただきたいのです。そうでなければ、死んでいった清里が浮かばれませんから。」
それは巴の考え抜いた末の結論であった。
しかし町奉行は太った体をゆすり、笑って答えた。
「ほほう、殊勝な物言いだのう。おぬしのような女を女房にもらえなかった清里は、本当に無念な男じゃ。」
町奉行はかしわ手を二回打った。
「お呼びでございますか。」
次の間に、目つきの鋭い剽悍な男が控えた。奉行は何がおかしいのか、まだ笑いながらその者に話しかけた。
「飯塚。どうだ、この女。わしが恋女房にほしいぐらいじゃ。長州にくれてやるのも惜しいものじゃ。」
男が顔をあげて、自分を舐めるように見るのがわかり、巴の心は散々に乱れた。
飯塚と呼ばれた男は答えた。
「確かにいい女ですな。ひょっとして、桂小五郎が妾にしてしまうやも知れません。そこをうまく操縦するのが俺の仕事ということですかね。」
巴はやっとの思いで町奉行に言った。
「長州にくれてやる・・・・とは・・・・どういう意味でござりましょう・・・・・。」
町奉行は事もなげに答えた。
「そなたはこれから、長州への間者として働いてもらうことが決定した。おとりつぶしの憂き目に会いたくなければ、そうするのだな。」
「間者・・・・私が・・・・何故そんなことを。」
「うぬが仇を誰かに討ってもらいたいと思っていたらしいが、世間にはそんなお人よしはおらんのだ。わかるか。自分の始末は自分でつけてこそ、武士の名に恥じぬ生き方と言えるのではないか。」
「お話が・・・・お話がそれでは違います。」
必死に食い下がる巴に、飯塚が割って入ってきた。
「そうさ。あんたはもう抜けられないところにまで来ているってことなんだ。せいぜいあんたを、そっちの道に落とした、その緋村という男を恨むんだな。そうすればそうするほど、味も出てくるというものだ。」
「ふふふ、女の味、だな。その緋村という男を篭絡できるかな。」
「できる、ではありません。やってもらうということです。京で観察しましたが、ヤツにはなかなか隙ができない。だが女を買ったりなどはとんとしません。まあ、まじめな野郎です。そういう男にはこういう女が一番いいと思いますね。」
カッ、と巴の頭に血がのぼった。
そういう――そういう意味でここに呼ばれた・・・・私が。
巴は叫んだ。
「嫌です。絶対に私は、やりません。」
その巴の頬を、町奉行は乱暴に分厚い手のひらで張った。
「アゥッ」
悲鳴をあげて倒れる巴に、奉行は冷ややかに言った。
「馬鹿な女だのう。家財が没収されると、たった今申したであろうに。」
巴は畳に倒れていた。乱れた前髪からのぞくその両目からは涙があふれていた。巴は言った。
「縁には・・・・縁には・・・・何もしないと約束してくださいますか・・・・・。」
「うぬの弟か。腐っても雪代家の跡取り息子だ、悪いようにはせん。」
奉行の言葉をどこまで信用していいものか―――巴は自分が、切り立った崖の上から手をすべらせた思いがした。
奉行は立ちあがって言った。
「飯塚。門の外で待っている雪代縁を送っていけ。この者は御庭番衆で預かることにする。」
「あの小僧、素直に帰りますかね。ま、なんとかおだてて帰すことにしましょうかね。」
肩を震わせて嗚咽する巴に、奉行はとどめのような一言をあびせた。
「御庭番衆の者らから、間者の女の作法をまず学ぶがよい。せいぜい励め。そちの細腕では、その緋村という剣客を倒すことはできまい。九ノ一としての技を磨くのだな。」
数人の武士たちが部屋にどやどやと入ってきた。
巴は後ろ手を縛られて、ひったてられた。
―――清里さま。私は・・・・私は・・・・あなたさまのために・・・・このようなことに・・・・・。
何故か巴はそう思った。まだ見ぬ緋村抜刀斎という男には、巴の恨みの感情は向けられなかった。
そして奉行所の裏から外に連れ出された時、巴はもう一度驚くことになった。
―――先ほど見た庭師が―――!
竹ぼうきを横において、数名の紺色の装束の者らが、平伏して待っていた。
さっき見た庭で剪定していた者たちだ。
先頭の片膝をついている青年―――先ほど巴が見とれてしまった蒼紫だ―――が、顔を伏せたまま、武士らに言った。
「江戸城御庭番衆、確かに女一名をお預かりいたします。」
「うむ。ちゃんと仕込むのだぞ。」
「御意。」
巴は裏切られた、とその時思った。
それではこの場に居合わせた者はすべて、私を間者に仕立てあげるつもりで―――。
傷ついた巴は、ふらふらと御庭番衆らについて歩き出した。
そうでなければ、殺されるかも知れないという気がしたのだった。
さっき庭の木々を切っていたときは、まったくの無害に見えたのに、今自分を取り囲んで歩いているこの一群の、気配の殺気だっているのはどうであろう。
巴はこれから先の自分の運命を考えないでおこう、と思った。ただ彼女は、門の外で待っている縁の身柄をだけ心配していた。

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