(二)
「母上、母上。」
蒼紫は夢を見ていた。
それはまだ幼い日の自分―――無力だった頃の自分だ。
必死で少年の日の蒼紫は木戸をたたいている。
中には母がいるはずなのだ。
母が―――死んだ父とは別の男たちと。
蒼紫はそれを認めたくないのだった。
何故病弱な母が―――それは自分を育てるためだという事はわかっている。
そうしてある冬の日の朝、母は蒼紫を一人残して死んだのだった。
―――操、お前は俺の母のような悲しい女にはなるな――――。
何故あの操という娘の事をそう思うのか―――あの娘は御庭番衆とは別の道を、あの父親の玄播のもとで過ごしていくのだ。それなのに―――。
蒼紫はそこで目を開いた。
母が死んだ後のことは考えたくなかった。
あれから今の御頭に拾われるまでの、地獄の日々―――。
自分はあの館につれていかれた頃、間違いなく人を殺すつもりでひそかに剣を練習していた。
そして惨劇は起こった。
あの時、その場に居合わせた何人の人間を斬り殺しただろう。
御頭はそれをじっと影から観察していて、自分を一撃のもとに倒したのだ。
その時の言葉も覚えている。
「武士の子供か―――哀れな。それだけの人間を斬った以上、もはや普通の生き方はできまい…。」
少年の日の自分、まだ髷を結っていた頃の自分が御頭に向かって、全力で剣をつきつけ走っていく。
御頭はそれを一閃でなぎ払った。
失神した自分が気がついたときには、御庭番衆の館につれていかれていた。
そうして自分は御庭番衆になったのだった。
殺人はすべて不問に処す代わりに、蒼紫は下人として、御庭番衆として生きる道を示されたのだ。
それに背くことはもはや許されなかった。
漂流する木ぎれのような人生、と蒼紫は思う。
そんな自分が見つけた、誰にも知られないひそかな華が、あの操という娘の誕生であった。
三度の手合わせをした時、自分に負けた後の玄播のどなり声はよく覚えている。
「父上。はっきり申し上げておきます。御庭番衆は武士ではない。だからこれは、剣の道ではないのだ!あなたがこの者に何を見出したかは知りませぬが、私は武士としてまっとうな道を歩むつもりでおります。」
蒼紫の誇りは、もちろん十二分に傷つけられた言葉であった。
その武士として上を生きる玄播の娘を、下に落とされた御庭番衆の自分が自由にする。
ありえない、と人は言うだろう。
しかしそれは蒼紫にとっては、愉しい空想なのであった。
何年かたてば、あの娘も二歳の幼女ではなくて、花が開くようにまぶしい少女へと成長するだろう。
その頃、ひとまわりも歳の離れた自分は、その娘にとっては、不釣合いな者になっているに違いない。
その娘を俺が汚す―――汚すのだな、と蒼紫は胸中で繰り返した。
心の中で誰かが涙をこぼしながら、獣のような哄笑をあげていた。
その時あの娘はこの俺に抱かれることを喜ぶだろうか―――何も知らずに。
蒼紫の心の中で、母を抱く男たちと、自分とその娘の姿が重なった。
嗚呼、と蒼紫は思うのだった。
やはり自分などは、あの娘に近寄ってはならないのだ。
遠くからその存在だけを見ているのが、一番いいのだ。
しかし一度考えた想像の幻影は、蒼紫の脳裏から去らないでいた。
それは胸をかきむしられるほど苦しくも、甘美な幻想であった。
その時だった。
「若、奉行所から庭師として検分に入るように命令が下っておりまする。」
「般若か。」
蒼紫は寝床から起き上がると、障子を開けた。
般若の面をつけた、忍びの者が控えていた。
「どうした。何か特別な者が来たのか。」
「女でございます。」
「女。」
「近頃京で暗殺を繰り返している男、緋村とかいう剣客らしいのですが、これに縁の者を殺された女です。」
「奉行所に駆け込んだのだな。」
「その者、御家人の娘なのですが、器量がなかなかによく、九ノ一として送り込めるやも知れぬということでございます。」
「女には気取られてはいないな。落とすのか。」
「左様。京から闇の武の者があがってきておりまする。」
「御頭には知らせたのだな。」
「は。先ほど報告いたしました。」
「わかった。すぐに行く。」
蒼紫は仕度をしに着替えた。
地味な紺色の庭着である。
どこから見ても町の植木職人であった。
―――緋村か。緋村抜刀斎か。
すでに蒼紫は、京に放った忍びからの報告でその名前を知っていた。
―――飛天御剣流の使い手。一度手合わせをしたいものだが―――。
それには命がけなようだな、と蒼紫はひとりごちた。
すでに緋村抜刀斎に殺された幕府の者の人数は、三桁に届きそうになっていた。
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