第一章 元治元年 春
(一)
雪が舞っていた。
降りしきる雪の道に、紅い花びらが点々と続いていた。
花びらは手からこぼれ落ち、やがて途切れた。
青年は暗い瞳で、一軒のこじんまりとした武家屋敷を眺めていた。
かすかに、彼は心の中でその者の名を呼んだ。
―――出ておいで、そこから…。
どうして彼は自分が焦がれているのか、わからないでいた。
その者の父から、かつて稽古で竹刀を交えたとき、「それは剣の道ではない」という言葉を投げつけられたからか。
それを否定したいがために、その者をそばに置くことで埋め合わせをしたいのか。
それとも、あの厳しい老人に、自分はけして御庭番衆を裏切らないということを示したいのか。
その者と自分は何のつながりもないのだ、と思うと彼は無性に悲しいのだった。
自分という存在が、世間という広い海をただ漂流する木ぎれのように思えてくるのだった。
彼がその日、遠国御用の折に、その者の家に立ち寄ったのは、降り積もった想いがその重みで耐え切れなくなったからなのであろう。
彼はそれほどまでに孤独にむしばまれていた。
前日の夜半から深夜にかけて降り積もった雪が、朝の光にキラキラと輝いていた。
巻町操は土間を降りると、いつも遊ぶ手毬を片手に表の戸をあけた。
「あぁ寒い。」
まわらぬ口でそう言うと、外に出た操は、雪の道に点々と続く紅い花びらを見つけた。
――なんだろう。
それは手に取ってみると、四角く切り抜かれた小さな折り紙の破片だった。
それは操の家の前から点々と山の方へと続いていた。
操の母の縫が娘よりも先にそれを見とがめなかったのは、偶然と言うより他なかったであろう。
――きれい。
操はその続くほうへと、ぽっくり下駄で歩き出した。
それからずいぶんと歩いたはずだ。
やがて紙切れが途切れた時、初めて操は我に返った。
ここは一体どこだろう。早く帰らないと・・・・と、その時操の頭上で声がした。
「そこから先へは、行けないぞ。」
はっ、として見上げると、背の高い青年が操の前に立っていた。
濃い藍色の服を身に着けている。
操は逃れようとして後ずさりをしたところを、青年にやさしく腕をとらえられた。
そして―――。
「あっ!」
あっという間の出来事だった。
操の小さな身体が、かがんだ青年に強く抱きすくめられたのは。
操の幼い体に震えが走った。
この人は知らない、知らない人だ・・・・しかし青年のその動作はわずかな時間であった。
彼は操の身体から離れると、その手に何かを渡し、すっ、と影のように消え去った。
おびえる操の耳に三文字の言葉を残して―――彼女はその意味を理解するにはまだ幼かったし、また彼女はそれを忘れた。
何しろ彼女はまだ二歳であったから―――。青年の言葉は次のようなものだった。
「いずれ。」――――
巻町縫は娘の握り締めた紙雛を見つけて、呼び止めた。
「それはどうしたの?」
千代紙で丁寧に作られた女雛の人形だった。
操は答えた。
「知らないお兄ちゃんにもらったの。」
「まあ。知らない人からもらってはダメよ。」
そんなもの、と縫は紙雛をすぐに、かまどのたきつけの火にくべて燃やしてしまった。
従って彼のおとずれは、巻町家の人々には、ない事にされたのだった。
それから数年後、彼がその本来の姿を現す日まで―――雪の道の紅い花びらの破片は、夜の闇の中にひっそりとかき消されていった・・・・。
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