序章・慶応二年(一八六六年)春


月が翳った。

みるみるうちにぬばたまの闇を増す城の城壁に、孤影が四ツ、降り立った。
「蒼紫、ゆくぞ。」
蒼紫と呼ばれた中の一番年若い青年が、その言葉にうなずいた。
「この仕事は公儀隠密の仕事としては、なかなかのものになりそうだ。命令はたいした任務ではないが。」
言葉を切ると、いかめしい風貌の老人は、じっと城の方をうかがった。

公儀隠密――この言葉が青年の脳裏に刻まれるようになって、既に久しい。
この言葉を「公儀」と「隠密」に青年は分けて考えるようになっていた。
自らのいる山里に命令を告げに来る男らは常に、「御公儀の故に」と言い、それに対して今先に立っている御頭や自分たち仲間は平伏し、秘密裏に事を運ばなければならなかったからである。
つまり、自分たちは、「隠密」に過ぎない。
そして命令を告げに来る武士らは、蒼紫らを「下人」と呼んでいた。

「しかし、御頭、御公儀も我々にこんな仕事を頼むとは、よほどせっぱつまっておりますな。」
般若の面をつけた男が低く言うに、老人は片手でさえぎり、
「ここからはわしと蒼紫で行くとしよう。般若とべし見は陽動を頼む。」
言うなり、御頭と呼ばれた老人と青年は、闇の中に身を躍らせた。
二人は一分の隙もない動作で城壁をつたい進んで行く。
それを陽動役の残った二人が見やり、感嘆の声をあげた。
「初陣であれとはねぇ。いや見事なもんだぜ。」
べし見が――二人の男のうち、小男の方だ――が言った。片方の男は能面の般若の面を顔につけた、異様ないでたちだ。
「べし見、初陣と言うのではないぞ。御頭は仕事にはいつもあれを連れて歩いていたではないか。私などもあの者がいなければ、今ごろ御頭に殺されていただろう。あれこそ神依りの化身よ。」
「へえ?あいつがおまえさんの命乞いを?あの木石で心根ができているような奴がねえ。」
と言うが早いか、べし見は般若に首根をつかまれた。
般若は言った。
「貴様に言っておいてやろう。その昔、御頭の剣をはじいたのだよ。無言でな。貴様にそんなまねができるか。口をつつしめよ。」
「ヘッ、あいかわらずキツイぜ。」
べし見は首をすくめると、かねての手はず道理か、般若とは別方向の闇に消えた。
しばらくして城の見回り組みのうちの何人かが何者かに倒され、それを発見した所から小さな騒ぎがはじまっていた。「何者かが城の内部に侵入しようとしておるぞ」――と。
しかしすでにその時には侵入は果たされていたのである。
城の奥深く――しかし城内ではない、御頭と蒼紫の二人がたどりついたそこは、隠された中庭に新しく建てられた物置小屋風の建物であった。
札が入口にはかけられていた。
御頭が低くつぶやいた。「火気厳禁。」――
青年がピクリと顔をあげた途端、横あいから城内の武士が「曲者見つけたり」と斬りかかってきた。――がその瞬間。

武士の胴体が無残にもはじけ飛んだ。
老人の御頭の体が宙を切って、どのような技をもってしてか数回駿速にて回転したのであった。――回転剣舞・六連。
血煙舞う中で、面を崩さず、青年は心中で冷静に数え上げていた。
つけ加えるならば、自分にはまだ、未完成の技。
「入るぞ。ゲベール銃を出される前に盗らねばならぬ。急げ。」
二人がこの日盗みだすつもりのもの、それはここ、肥前佐賀藩が執念の思いで完成させたアームストロング砲の設計図面である。
正確に言うとその「写し文」だ。
情報筋から来た情報ではそうだった。
むろん藩内部でこの情報を売った者がいる。
実はこの最新式砲門を長州藩に譲るという話がすでに、浮上していたからである。
長州の暗躍を「見過ごせぬ」佐幕派がこの藩にも少しはいたという事か――しかしそれらは、彼ら御庭番衆にとっては「どうでもいいことがら」であった。
目的のものを幕府に渡せば、それでよい。青年もそう固く信じていた。
「あった。」
青年が小屋の中で御頭に合図をした。
見ると、絵図面が入った文書を長持ちの中から出していた。
「たしかにそれか。」というのに、彼は小さくうなずいた。
青年は訓練で夜目がきいたし、外国語が読めたのである。
このような日のために学んだと言っても過言ではない。
設計図に書かれた細かな英文を、彼は読んだのである。
と、その時――。
外で突然砲声がした。
特徴のある風切り音だ。
瞬間、青年は文書を小脇にかかえて身をひいた。
「アームストロング砲!」
老人が叫んだ時には遅かった。
物置小屋に砲弾が命中していた。
青年は心中で叫んだ。
――御頭!
青年は身軽に城壁へ出ると、殺到してくる武士を片端から小太刀で斬りくずし、、文書を懐に入れ、ましらの如く草原へと駆け抜けた。
そして指を口にくわえると呼子笛を低く一度だけ吹いた。
小鳥の鳴き声のようなそれを合図に、他の忍者の影もすすきの原を分けて、城から戻ってきた。
「御頭はどうした?」
「死んだ。」
青年は般若に短く告げると、城の方を眺めた。
うす暗い中に、小さくまだ火の手が上がっているのが見えた。
試し撃ち同然の的にされたらしいとわかると、青年の冷たい瞳にも燃え上がるものがあったが、その一方で、この文書を間違いなく幕府の役人に手渡さねばならぬこと、そして今見た光景をしっかり目に焼き付けておく必要があることを考えていた。
――何処から狙ったのか。しかし一砲目ははずしたな。

慶応二年(一八六六)年春――四乃森蒼紫、十七歳の時の出来事である。

それから約二年後、―――北陸の小村、春…。
巻町操は六歳になっていた。

「母さま、雪が―――」
「そう、まだそんな季節なのね。操、縁がわで本を読むと風邪をひきますよ。」
「はぁい」
操は父にねだって買ってもらった絵本と折り紙を手で寄せると、囲炉裏端で縫い物をしている母の傍によった。北陸の春は、
まだ寒い。器用に動く母の手元を見つめながら、操は甘えた声を出した。
「ねぇ母さま、この本あんまり面白くない。」
「え?なぁに。操の好きな源九郎義経さまでしょう。」
「だって…だって弁慶が義経を殴っているんだもん。そんな場面しか出てこないんだもの。父さまの選んだ本なんて。」
「ああ、安宅の関ね。父様、勧進帳なんか。まぁ金太郎にでもすればよかったのに。」
母の縫はおかしそうに笑った。
操はムッとして、絵本をたたんだ。
縫はあわててとりなした。
「でも安宅の関はね、操、この近くなのよ。」
「京都よりも近く?」
「五条の大橋よりも近くですよ。」
そこでぷつんと歯で糸を切ると、縫は「もう寝なさいね」と真顔になって言った。
操はしぶしふ寝床にもぐりこんだ。
まだ眠くならないし、言い足りないことがあった。
「ねぇ母さま。あの本には静姫が出てこなかったんだけど、静姫って白拍子だよね?」
「そうですよ。」
「白拍子って芸者とおんなじなの?」
「誰かがそんなことを言いましたか?」
「だって…向かいのおばさんとこの子供がそう言ってたんだもの。」
「母さまは芸者とは少し違うと思いますよ。」
「そう…それならいいんだけど。」
「さあもうおやすみなさい。」

母の縫はふすまを閉めて出て行ったが、
操はこの夜のことは断片的にだが、覚えている。
父が二度と戻らなかった夜―――。

「操はもう寝付いたか。」
「はい。」
操の父、巻町玄播が縫に言った。
「今夜は折り入って話がある。」
縫は気丈な調子で答えた。
「覚悟しております。官軍がもうすぐそこまで来ているとの事でございますから。参挙いたさねばならぬのでございますね。」
「北越ででもやらかすとはあきれたものよ。しかし長期にわたる戦いにはならぬと聞いている。上の方が乗り気ではないのだよ。いや、それよりも縫、少し込み入った話をしておかねばならぬ。私がこの巻町の家に郷士として迎えられた時にしておくべきだったかも知れぬが―――」
「なんでごさりましょう。」
「私の家のことだ。今朝、このような落し文が家の前に落ちていた。」
巻町縫は凝視した。
「それは―――」
「私の父の手蹟のものだ。ただし父は二年前に客死したと聞いている。さる―――京都の老人からの手紙で知ったのだが。」
「どういうことなのです。私、あなたさまの御家族のことは何も。」
玄播はため息をつき、言った。
「父の話はしたくなかった。一種の―――やめよう。私の才が至らなかったせいでもある。」
「お話くださりませ。お願いしたいます。だってこれはまるで―――果たし文のような。」
言いかけて、縫はハッとし、言葉をつぐんだ。玄播はしかし、気にかけずに言葉を続けた。
「おまえもそう思うのか。実は私が浪人として、この地に流れてきたのは―――私が父から破門同然の扱いを受けたからなのだ。」
「では―――あなたさまは元は御武家の出で、破門されてこの北越へいらした。」
「そう思っていてもらえれば、嬉しかったよ。そんな良いものではない。もともと父は、江戸城付きの御庭番衆の頭目で―――」
縫は大きく目を見張った。玄播は続けた。
「私はその後継者だったのだ。だが父は一種剣にかけては天才と言ってもいいほどの狂人で―――私には自分ほどの才能が認められないというだけで、私を破門にもっていった。―――いや、ちがう。ちがうのだ。」
膝の上に置かれた玄播の握り締めた手が震えた。
「父は業が深い男だった。結局子には子なりの幸せを願い、つまり自分の血筋のものは残して、その上で自分の才能の後継者を得ようとしたのだ。世間並の考えの者ならばどちらかをあきらめるところを、父はあきらめなかった。だからこうなるのだ。」
沈黙がしばし流れた。縫は畳の上の落とし文に目をやりながら、言った。
「その方がなさったという確証があるのですか。」
玄播は縫の思慮に驚きつつも、はっきりと答えた。
「ある。私は父のその後継者の者と手合わせをして負けた男だからな。その頃はまだ子供だったが。」
「子供―――!?」
「ある御家人の一人息子でな。その子供の父親もそこそこ腕のたつ男であったが、藩内のもめ事に巻き込まれて腹を切った。母親が少ない扶持からなんとかこの子を育てようとしたが、病が嵩じてな。亡くなられた。」
「では、その子は孤児ではありませぬか。」
「父や父の仲間は、そういった者を探すのが得意なのだよ。しかし憐れみは不要だ。今思い返しても、ゾッとする、底冷えのする目をしていた。父親を切腹させられた恨みとでもいうのか、父から剣を習ったせいなのか―――」
「では私たち親子のことも恨みに思っている―――?」
「かも知れぬ。父が死んで久しいしな。父の後任はほとんどその者がとっているという事だ。京都の翁が手紙を私に寄越してきた。今では単なる御庭番ではないらしい。昔は講武所であったところが、今では陸軍所になっているとの事だ。」
縫は小さく首を横に振った。
「よく―――わかりませぬ。一度にたくさんのお話で。ではその方は、あなたさまのお父上が、養子同然にされた方なのですね?」
玄播は縫の問いかけを即座に否定した。
「養子ではなく、師弟だよ。単なる。父とは才能だけで繋がっていた、十九になるかならぬかの若僧だ。」
縫は冷や水を浴びせられたような気持ちになった。
「やはり…たくさん人を殺めたり。」
「当然だろう。ああいう役についた者は。だから、私は嫌だったのだ。」

二人の間に沈黙がしばし流れた。
縫はしかし、勇気を振り絞って顔をあげ答えた。
「わかりました。私も武士の娘でございます。操は守り抜きますから、後の事は御心配召されますな。」
「縫。すまない。なに、奴らは脅かしているだけだと思う。時局が収まったら、幕府の犬だ。何処へなりと流れて行くだろう。今の御時勢では、幕府の御威光も沈むばかりだ。」
「はい。」
「奥羽越列藩同盟も何処までもつか。官軍は軍艦も用意して来ているとの話だ。本当はこちらの方が心配なのだがね。早くあらの上の方で、話をつけてもらいたいものだ。でなければいらぬ民草の血が流されることになるからな。」
「‥‥‥‥」

それから一ヶ月。
夫の玄播は城から戻ってこなかった。
風のたよりに、長岡の戦線が篭城策を取っているとの噂であった。
縫は操と玄播の無事を祈る毎日であったが、異変は突然に訪れた。

「官軍が‥‥‥官軍が攻めてくるぞーっ。」

初めはそんな声が遠くから聞えてきた。
縫は家の外に出た。
すると、村長である老人が、息せき切って走ってきた。
「た、大変じゃ。昨日の晩ここを官軍の部隊が通過したらしいんだ。それを知った幕軍がよくも通しやがったな、って村の者を斬っているらしいんじゃ。あんたも早く逃げなっせえ!」
老人が走ってきた後ろを、バラバラと何人もの村人が家財道具を背負い逃げていった。
「そんな―――」
縫は思わず山の方を見た。昨晩確かに不審な灯がそこを通過していったのが見えたが、それが官軍とは思いも寄らない。それに―――。
「最初に官軍が攻めてくるって声がしたわよ。」
老人は激しくかぶりを振った。
「奴らの手じゃ。やってくるのは、ならず者の下っ端どもじゃ。米や銭をかすめ取って歩いとる話じゃ。何処から来た連中か知れたもんじゃねぇ。早く逃げるんじゃ。」
老人はそれだけ言うと、次の家の戸を叩きに駆け出した。
縫は急いで土間を駆け上がった。
操が尋ねた。
「どうしたの、母さま」
「おさむらい達が攻めてくるの。逃げるのよ!」
手元にあった金と米袋衣類などをかき集め、背中にしょうと、縫は操の手を引いて裏口から外に出ようとして息を呑んだ。
血刀をぶら下げた男が二人、裏口に立っていた。操は悲鳴をあげた。
「母さま!」
男の一人があごをしゃくり、言った。
「おい、女と娘だぞ。あの子供は子取りに売れるんじゃねぇか。」
「そうだな。」
「やめて―――!」
縫は必死で抵抗の構えに出た。
護身用の懐剣を懐から引き抜いていた。
「そこを通しなさい。さもなくば、斬ります!」
「面白い。やってみな。」
縫は激しく斬りかかった。
しばらく男と斬りあっていたが、その時裏口の前に馬に乗って駆けてきた者が声を張り上げた。
「何をしている。さっさと金目のものを奪い取ってずらかるぞ!」
男は獰猛に叫んだ。
「よしきた!」
言うが早いか、残っていた男は縫を袈裟掛けに斬り下ろした。
「あ―――――!」
操は小鳥のように叫んだ。
「母さま!」
男達は二人を残し、疾風のように消え去った。
「だれか‥‥‥‥‥っ!」
縫は戸外にまろび出た。
夜盗と化した一群は、家屋を物色し、村人を無差別に斬りながら逃走していっていた。
この間に操を連れてなんとか‥‥‥!だが縫は数歩歩いたところで道の端にうずくまった。右胸からおびただしい血が流れ出してきていた。
斬られた傷が激しく痛み、気が遠くなってゆく。
――そんな、私が、私がここで死ぬなんて‥‥‥‥!
「母さま、母さま!」
操は必死で縫の体を揺さぶった。しかし少しも体が動かなかった。
「死んじゃいや、死んじゃいやぁ、母さま―――!」

それからどのくらい時が経っただろうか、もう暗くなりかけた縫の瞳に、誰かが道の真ん中で立っているのが映ったのは―――。

――誰‥‥‥?玄播なの‥‥‥?
縫は夫の玄播が帰ってきたのかと、薄く目を開いた。
見知らぬ青年が一人、目の前に立っていた。
青年は片膝をつくと、低い声で口早につぶやくように言った。
「巻町玄播殿のお内儀であらせられるな。」
「だ・れ‥‥‥?」
と、相手は縫と操に向かい、答えた。
「元江戸城付御庭番衆頭・四乃森蒼紫。巻町殿のお父上には生前世話になった者です。御内儀には申し訳ありませんが、長岡の戦線で巻町玄播殿は戦死なされました。」
「な‥‥んですって。」
縫の目が悲痛に大きく見開かれた。
だが青年は嘘を言っている様子ではなかった。
青年はたいそうつらそうな面持ちで、目を伏せて続けた。
「私は故あってその事を是非お知らせせねばならぬと思い、馳せ参じましたところ、このような事になっておられて、たいそう驚いております。」
相手はまるで報告書でも読むように、縫に向かって早口にこう言った。
しかしこの場に居合わせるのが、たいそうつらいというには変わりない様子であった。
縫は走馬灯のように、玄播から聞いた話を思い返した。
――これがあの玄播の話にあった、若者か。でもあの話にあったのとは、違うような‥‥‥。
縫がこの青年がいるのを認めた時、墨染めの黒装束の忍び服を着ているにもかかわらず、薄い紗綾をかぶせたように、周囲の空気から浮き上がったような光芒はなっているように思えたのは、一体どうした訳なのだろう。
それは死に行く縫がこの者に、わずかな望みをつないだせいだけだったのだろうか‥‥。
縫は切れ切れに言葉を吐いた。
「そなたに‥‥頼めますか‥‥‥?」
青年がわずかに顔を上げた。
縫は息をつきながら、静かにささやいた。
「頼みます‥‥‥この子を‥‥‥操を‥‥‥‥新潟まで‥‥安全なところまで、連れていって‥‥‥‥!」
最期の方は、涙で言葉にならなかった。
縫はそこで大きく息を吐き、事切れた。
操は縫の体に取りすがって号泣した。
しかし、やがて―――。
空にははや月がぽっかりと浮かんでいた。
青年は操が泣き止むまで待っていたのだろうか。

「おいで。」

幼い操は、差し出された手を凝視した。誰なんだろう、この人は‥‥‥知らないけど、綺麗な人―――まるで絵草子から抜け出した人みたい。
操は知らず、手を引かれて歩き出した。
一度振り返って見た時、母は道端で眠っているようだった。
それから数日後、操は大きな町に出た。
どの町だったかはわからない。
海べりのその町は、灰色の塊が眠っているようで、青年の仲間の男達が幾人か操達を待っていた。
沖には何艘もの黒い船が停泊していた。
さながら一幅の墨絵のように、操はその光景を覚えている。
尋ねた操に、

「官軍の軍艦だ。」

と青年は短く低い声で答えた。
旅の間も青年は無口で、操はその頃には彼の他の仲間と同じく、青年を「蒼紫様」と呼ぶようになっていた―――。

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