(八)
翔伍は気がつくと、見知らぬ病院のベッドに何時の間にか寝かされていた。
傷が痛むが、何とかベッドから起き上がった。
―――助かったのか。
半ば呆然として白い壁を見つめていると、病室のドアが開いた。
看護婦ともう一人、恰幅のいい紳士が入ってきた。外国人だ。
「ムトウ・ショウゴさんですな?」
紳士は会釈をし、帽子をぬいでそばの椅子に座った。
「私はオランダ領事館のエルステン・ロペスと言います。はじめまして。単刀直入に言いましょう。あなたは日本にいてはいけない。オランダへ渡りなさい。オランダでは、あなたやあなたの信徒たちを友として迎える人が大勢します。でもその前にひとつやっていただきたいことがある。」
エルステンはそこで、背広から黒革の小冊子を取り出した。
「これは新約聖書です。私はプロテスタントを信じています。本当はこんなことを人にすすめるのさえ、私の宗派ではいけないことなのですが、私はあなたにプロテスタントを勧めます。そうでなければあなたが救われないと思うからです。キリスト者はキリストであってはならない。いいですね。」
長い沈黙の後、翔伍は答えた。
「はい。」
エルステンはホッとした様子で言った。
「よかったです。拒否されればどうしようかと思いました。私はあなたにも戦う理由はあったのだと思います。昔カソリックはこの国で弾圧されましたからね。」
エルステンは小冊子とともに一通の手紙を翔伍に渡した。
「これはあなたの亡くなられた妹さんからの手紙です。私があずかってきました。たしかにあなたにお渡しします。」
「亡くなった―――小夜が、死んだというのですか。」
エルステンは顔を曇らせて答えた。
「ピストルで撃たれました。私はその場に居合わせたのに、恥ずかしいことですが救えなかった。私を恨んでくださっても構いません。」
エルステンと看護婦は示し合わせて出て行った。
翔伍は手紙を拡げた。
『お兄さまへ―――お兄さまがこの手紙を読むとき、すでに私はこの世にない者かも知れません。でも死を目の前にして、不思議と私の心は明るいのです。神に召されるからかも知れません。
お兄さまは覚えておいででしょうか?私たちが大陸に渡ったときことを。幾度もくじけそうになる私を、お兄さまはいつもその広い心で支えていてくださいました。私はあの日々を糧にして、今日まで生きてきました。お兄さま、どうか思い出してください。人々は信じています。互いを労わりあい、額に汗して働き、神の心を持つことを。私が信じるように、お兄さまも信じる。それはすなわち、お兄さまが神となられることなのです。私はその日が来るまで、神の御許にても祈り続けています。』
―――小夜。
翔伍は思わず瞑目した。
大陸に渡ったとき、西海岸でたどりついた小さな教会は、プロテスタントの教会であった。
その日々を今思うのは、捕縛となった今、耐え難いものであった。
翔伍は内心の憤りを抑え、神に祈った。
―――小夜。しかし私はずっとおまえにそばにいてほしかった・・・・・・!
この時が来るのは覚悟していたのだ。
だが―――。
その時、彼方からサラサラと衣擦れの音がして、高貴なる少女の幻影が、かがみこんで祈りを捧げているのを、翔伍は感じた。
私は、永遠にお兄さまとともにいます―――。
「小夜・・・・・・!」
翔伍の心は悲しい喜びに満たされた。
彼は、それほどまでに妹を愛していたのである。
その同じ頃。
東京の警視庁本部の廊下を、川路良利が急ぎ歩いていた。
西南戦争からこの方、このころ各地での蜂起事件が増えて、めっきり心労が増えた。
少し顔色も悪い。
川路は課の扉を開けた。
斎藤に総監室に来るように伝えると、軽くせきばらいをして立ち去った。
―――来年こそは、君にまた外遊してもらう事になるかも知れん。
山縣がふともらした言葉が、気にかかった。
が、先の事などわかるものではなかった。
斎藤は昼すぎに外まわりの仕事から帰ってきた。
すぐに総監室に出向くと、川路が窓際で後ろ手に組んで立っていた。
「島原の件が解決した。」
斎藤は答えた。
「は、存じております。海軍の鋼鉄艦で鎮圧したとか。現在五隻あるうちの二隻ですか?」
「うむ。長崎海兵所から派遣された艦だという事だ。」
斎藤はその時、テーブルの上に自分に向けておかれた一通の書類に気づいた。
川路は言った。
「それは司法省から君宛に来た勧告文だ。受け取りたまえ。」
斎藤は中身を改め、目を見張った。
「―――右ノ者 書類不備ニツキ逮捕訴状ヲ棄却スル。―――バカな!」
斎藤は川路に向かって叫んだ。
「志々雄真実の事件は、現在服役中の囚人も大勢おり、被疑者は間違いなく事件の関係者であり、首謀者たちの国家転覆に関与していたのであります。それは本官も自ら出向き、承知の上で―――。」
「それならば速やかにその場で逮捕するべきだったな。しかし書類不備ならいずれにせよ、不起訴処分だ。君の京都での報告文は、むろん真実だと私も思う。だがこの男の訴状は棄却された。」
斎藤はいつになく、冷ややかな川路の物言いに、その時やっと気づいた。
突然、目の前に鉄壁が立ちふさがったかのようであった。
明らかに、島原の件を陸軍にまかせると言っていたときの川路ではない。
そして、この川路良利も薩閥の一人だという事に、斎藤はようやく思い当たった。
斎藤はそれでも、一歩踏み込んだ気持ちで言った。
「何故です?不起訴の理由をお聞かせください。」
川路はにべもなく答えた。
「それは君自身が考えたまえ。」
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