(三)
やはり朝早く。
巻町操はゆっくりと、静かに起き出した。
彼女はすべての神経を研ぎ澄ませて、家の外へ出た。
誰にも気づかれていない。
雨の匂い。
その強くなる方向へ、彼女の足は歩いていく。
やがて高台に出た。
小さな空き地に木立ちが植わっている。
操はその樹の幹にもたれかかった。
透明な雫が、操のほほを濡らした。
―――森の匂い。あの人の匂い。ずっとこうしていよう。――――
操は今寝台に静かに横たわっている。
彼女は森の中を歩く夢を見ているのだった。
その手をお近が握りしめて、操の顔を見守っている。
そばには心配気に見守る翁たちがいたが、やがて医師らしき人物に外に出るように言われた。
「では、手術を始めよう。」
操の目に巻かれた包帯を丁寧にはずすと、医師は手術道具のメスを操の皮膚に当てた。
「麻酔が効いているはずだが。それにしても、何という剣檄だ。」
医師は二人の看護婦に指示を出しながら、手術を始めた。
お近は耐えきれず、手術室の外で泣き伏している。
「手を――手を握っていて、って言ったんです、操はん。よっぽどつらかったんどすなあ。」
翁は暗い顔をして、閉められた戸を見つめてつぶやいた。
「蒼紫は、どうしとるかの。」
蒼紫はそばの木に倒れている娘の肩に手をかけた。
「立てるか。」
小夜は目を開き、乾いた唇をゆっくりと動かした。
「神に・・・神に祈っておりました・・・あの女の方に・・・・安らかな眠りと祝福を・・・・。」
「辰政、起きろ。天草翔伍を阻止する。」
辰政は頭を振り、立ち上がった。
「ケッ、てめえ一人で何ができるってんでぇ。ま、勝負はつけてもらわねぇといけねぇけどよ。戦争おっぱじめる中へ行くのはごめんだがね。」
蒼紫は言った。
「オランダ領事館へ手紙を書いた。あそこにはキリスト教徒への理解者がいる。また、古くからの日本の信徒への理解もある。そして内戦についても、反対の意見だろう。」
小夜は蒼紫の言葉に、うつろだった表情を初めて明るくした。
「そ・・・それは本当ですか。」
「恐らくあなたの考えにも彼らならば共鳴するはずだ。」
「あの・・・私、兄に手紙を―――手紙を書きます。」
小夜はスカートの中から、筒状のペン入れを取り出した。
「神の言葉を書くために、いつも持ち歩いているのです。紙はありますか。」
蒼紫がコートから懐紙を出すと、小夜は羽ペンで文をしたためはじめた。
辰政はしばらく見ていたが、やがて蒼紫に言った。
「おやさしいこった。それよりもてめぇがそういう越権行動に出るとは思わなかったぜ。オランダ領事館だと?そんな奴らが何をしてくれるっていうんだ。外国人だろうが。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「まあ斎藤へのみやげ話がまたひとつ増えたってところで、どこまでこんな病人を連れて歩くつもりなんでぇ。」
「彼女は兄に会いたがっている。これから島に渡る。」
蒼紫は言うなり、小夜を抱えあげて背負った。
小夜がひるむ間もなかった。
辰政は驚いた顔になったが、蒼紫の表情は冷淡そのものだった。
辰政は言った。
「ま・・・・天草翔伍のところへ行くんだから、文句は言えねぇか。」
三人は山から海岸へ下り、しばらく歩いた。
「船がある。」
乗り捨てられている粗末な棹舟を見つけ、蒼紫は小夜を下ろすと棹を手にして飛び乗った。
小夜を船倉に横たえると、辰政の助けで海へ出し、沖へと漕ぎ出した。
目前に天草群島の黒い影が見えた。
小夜はささやいた。
「兄たちは・・・・島の聖霊の丘に・・・・。」
小夜が苦しげな息でつぶやくと、蒼紫は言った。
「あまりしゃべらないほうがいい。」
蒼紫は巧みに棹をあやつっている。表情に冷淡さに加え、苦いものがある。
舟のはじに座りながら、蒼紫から目を離さない辰政は考えた。
―――あの顔はどういう意味なんでぇ。まさかこの女に気でもあるというのかね。
辰政は小夜に顔を近づけ、ささやいた。
「おい嬢ちゃんよ。こいつが兄貴のところまで連れてってくれるとよ。」
小夜はかすかにうなずき、放心した顔で目を閉じた。
蒼紫は黙って緑色の濃い深い海水を、棹で分けていた。
―――この女の向こうに、操を考えるのはよせ。
蒼紫の頭の中を、影のようにその考えがかすめた。
しかし彼のような人間の感情移入の仕方としては、仕方のないことであった。
この少女、小夜の命はもう長くない。
それは蒼紫の知識として知る、冷徹な事実であり真実である。
労咳は不治の病なのだ。
そして今の自分としては、何の手の尽くしようもない。
この少女がもしも天草翔伍の妹でさえなければ、自分は長崎の知人の医師ポンペの元へ連れて行ったに相違ない。
してみれば、いかに今こうして為している行為が冷酷非情なものか、と蒼紫は考えるのだ。
―――だがどうしても天草翔伍にこの妹を連れて会わねばならぬ。
ふと蒼紫は自分はまた同じことを繰り返しているのだろうか、と思った。
いつも見る夢の残像が脳裏をよぎった。
自分の心が朽ちてきているのだろうか、あの時みたいに――― 一人、緑の魔境に入って行ったあの時のように。
富士の樹海のそこには昼なお暗い深い原生の森があり、背後は切り立った峡俊な渓谷がそびえ、人の足跡など絶えてない。
連続して東西に広がる広範囲な樹林の森は、踏み込んだ人間の方向感覚を過ち、たまに生き倒れた白骨死体を見ることもあった。
森以外のところは、風穴のように開いた荒涼とした原野で、これも骨のように白々と朽ち果てた老木が、無残な野ざらしの態で呆然と立っている。
蒼紫は昼間は雲以外に動くものもないそこへ、着のみ着のままでわずかばかりの食料を手に入って行ったのだった。
ずっと昔、山人の小屋に行ったことがある。―――「武士の暮らしでは、おまえはこれ以上強くならない。」―――その頃は瞳に何かへの憎悪の炎を燃やしていたが、この時はどうだったであろう。
山に潜んで最初の数日で、世俗的な時間の観念は失われた。
ここでは東京での彼の生活の大半を占めていた、社会的な規範や習俗は何もない。
空腹のために漁をする以外、あるのは剣と己れのみである。
失った四人の精鋭であり、彼に最期まで忠節を尽くしてくれた者たちや、あの憎むべき緋村抜刀斎の存在すら、山にかかる天上の靄のように希薄になりがちだ。
時として自分の存在すら、この広大な原野の中の灰色の一点のように感じられ、そのまま急俊な谷に飲み込まれ、山の頂きに抱かれて獣のように息絶える、幻想の誘惑にかられる。
それを敗北とするのは、下界の論理だ―――この自然の圧倒的な力は、人為のそれを凌駕する。
蒼紫はこの心の内なる吐露を半ば慙愧するかの如く、小太刀を血の滲むまでに振るい、自分の肉体を痛めつける修行を続けた。
人を拒む山の自然は、美しく、かつ厳しく無情であった。
昼間でさえそうなのだから、虚無の訪れる夜の闇ではなおのこと。
蒼紫はある日、上流より流れてきた傷ついた鷺の雛鳥を見つけた。
その時彼は岸辺で回転剣舞の)にいきあぐんでいた。
これが為せなければ、ここへ来た意味はない。
彼は最初目の隅に見つけた幼鳥の鳴き声を捨てるつもりだった。
が、意を返して水に飛び込んだ。
雛鳥を救うと、そのまま上流へと水の中を移動して行き、行ったこともなかった谷間の瀑布に出た。
巣を探すと、湿潤たる松の木の陰にあった。
蒼紫は樹の枝をつたい、登った。
木立ちの上からは、遥か向こうに夕闇迫る山並みの緋に染まる稜線が見えた。
巣にそっと雛鳥を返した時、胸に去来した空虚な思いは、魔が棲む闇からのおとないだったのかも知れない。
数十メートルは眼下の、先ほどの瀑布の中に、彼はその幻影を見たのだった。
ハッと肌がひきつり、凍りついた。
蒼紫が見たと思ったのは、白い少女の裸身であった。
蒼紫はそれを、現実の人間だと思った。
もちろんその考えをすぐに彼は打ち消した。
こんな樹海に自分以外の、それも女がいるはずがない。
いるとすれば、それは「水妖」だ。
水妖は孤独から来る幻影であり、外国の書物にて彼はそれを知っていた。
船乗りは、長い航海の孤独から波間に人魚の水妖を見る。
だが蒼紫は、今の精神状態が危うい一点に差し掛かっていると、考えざるを得ないのだった。
山の夜は眠れなければ長い。
時折山の獣たちの遠吠えの声が闇に木霊する中、蒼紫は考えた。
自分は今までそれほど人間を好きだったわけではない。
そしてあの帝都の街も―――そこで得た多大なる知識も。
結局好ましくなかったから、こんな闇の中で獣のような暮らしを続けている。
そして亡き者たちに手向けるあでやかな朱の華のために。
自分としては、あの剣舞の技で、出来うる限りの美しい放物曲線を描かねばならない。
暗闇に、その理想とされる緋色の、なめらかな斬軌道を想像してみる。
士道の美辞麗句も、国体の擁護論も―――彼の嫌いな長州浪士がさかんに口にしていた―――この一瞬の力学の前には、無である。
そうではない銃や砲撃戦の時代にもう入っているのだが、蒼紫は剣を捨てるつもりはなかった。
しかし剣によってもたらされる、斬死体は醜い。
血はたちまち変色し、どす黒い暗赤色の染みに変わる。
それもあでやかな朱と言い切れるのか。
蒼紫は半眼になった目を閉じた。
武田観柳の、ガトリング銃の銃弾に貫かれた死体の血の色よりはましなはずだと思った。
あの痛みの記憶はまだ自分の中には残っている。
その恨みを、抜刀斎に向けるのは間違いだろうか。
ああいった者たちが、今の明治の世の中を作ったのだから。
そして今も立派なる社会の一員だ。
蒼紫はそこまで考えて、闇に意識を手放した。
最初は水の音の記憶だった。
青錆びた月のかかる、闇の天空より滔々と滝は流れ落ち、黒い岩をえぐって、深い底知れぬ滝壺を作っている。
夕闇の中で見たあの川底か―――その黒いすべらかなる岩肌から一人の少女が白き片手をついて、すっくと立ち上がった。
それは水妖たる変化の裸形の美少女である。
その双眸には綺羅の)なる星河を宿し、滝の瀬に涼しげにそよぐ緑の黒髪、その象牙の体躯は透けて出る輝きの)を被り、ニの脚の下には月光に萌える水滴をきらめかせた青苔を踏んでいる。
その)が蒼紫をとらえた。
その透徹たるまなざし。
蒼紫は黒々とした水流をかきわけ、その岩に近づいた。
)れるだろうか―――水から挙げた陽に焼けた腕を、ゆっくりと雪白の)に近づけていった。
それから時は経て、山は初春の頃。
蒼紫はしまってあった、例の灰褐色のコートを羽織った。
剣を腕に収めると、下草を踏み、彼は切り立った岩場に流れる川岸に出た。
遥かな山並みをよく眺められる丘の上に、彼だけを待っている人影があった。
「行こうか。」
変わらぬ玲瓏たる横顔で低くささやいたが、眼に暗い炎のようなものがある。
蒼紫が片腕を広げると同時に、さあっと山風が吹き降ろし、白き幻影は蒼紫のコートの中に溶け消えた。
そして半月後、蒼紫は東京から京都へ向かう街道筋を下っていた。
彼のそばにはやはり、この現実に生きている操とは、別の存在があった。
もちろん本当の操が生きてあることが、蒼紫にとっては安らぎである。
ではあの死んだ四人の部下とともに、彼は彼と行動をともにする幻影を付け加えたかったのだろうか―――答えは否である。
それは孤独が生み出した、彼の魂をさまよわせる迷宮の虚像である。
はじめは剣戟を為すのに、この幻影は彼にとっては邪魔な存在であったが、日がたつにつれ、彼の魂の奥深くに食い込んでいき、ついにはその魂魄の半分を奪われ、この陰鬼を道連れとする道を蒼紫は選んだのだった。
つまり、彼はその後この幻と、彼が手にした剣の前に、現実の人間たち、そして現実の操をも退けたのだった。
だがそれが、天翔龍閃の一瞬の閃きの前に、破幻し去ろうとは。
その後飛天御剣流による落雷の如き傷が癒えるまでの間、蒼紫が参禅を繰り返したのは、すべてこの時までの己れの解体のためであった。
よって彼は、かの幻を生み出した暗闇を、巨大な檻の中に封じ込めたと思っていた。
だが、その悄とした魂が今、彼の奥底で啼いているのだ。
この幻影は、傷ついた操のみならず、彼が舟に乗せて運ぶ少女の上にも、時に重なり座像を結んだ。
蒼紫の棹を握る指先が、固く握り締められ白くなった。
考えてはならない。
これは抜刀斎が言ったとおり、俺の心が弱くなってきている証拠だ。
こんな―――この程度の不運、不幸でさかしらに、しかも女のことで―――そう考える蒼紫だが、己れの目が座ってきていることに気づいてはいなかった。
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