(五)
小夜は不意に振り向いた。誰かがこの小礼拝堂に近づいて来る。何人かの足音だ。
「誰?ロレンゾとガスパルなの?」
と、部屋の外で押し問答をする声が聞こえた。
「どうした。早く開けろ。」
「…開けない。絶対にここは開けないからな!マグダリヤ様を人質にとるつもりだな。」
「辰政。」
「へいへい、こいつをふんづかまえときゃいいんでしょう。こん中に金になる奴がいるとあっちゃ仕方がねぇ。」
ギンッ、と鋭い音が走って、木製の扉が上下斜め左右に分かれ、バラバラと地に落ちた。
小夜は本能的にそばにあったピストルを手に取った。扉は鋼鉄の枠がはめこまれていたのに、すべて分断していた。
「来ないで!来たら撃ちます!」
恐怖心から小夜はそう叫んで、銀色の銃を腕で突き出した。
が、はっとなり、その姿勢のまま凍りついた。神よ、私はなんとまた愚かしい――――。
「マグタリヤ様!」
ロレンゾ庄三が叫んでいた。その横に影になった男が低い声で答えた。
「辰政、離してやれ。」
「あの女はピストル持ってるぜ。」
「構わん。ついでにこれも返す。」
辰政に突き飛ばされた庄三に横に、蒼紫が投げ捨てたマグタリヤのメダリオのペンダントが、軽い音をたてて地面をころがった。小夜は目を丸くした。
「それは私の。」
辰政が叫んだ。
「あ、いつの間に盗りやがったんだ、この野郎。」
蒼紫はもう納刀している。今度は形勢が逆転した。庄三は小夜の手からピストルを奪うと、蒼紫に銃口の狙いを定めた。
「さっきはよくもやりやがったな。」
小夜は悲鳴まじりに叫んだ。
「庄三、やめて!殺すのはいけません!」
蒼紫は冷静に言った。
「おまえたち、投降をするのだな。もうすぐここで皆既日食が起こる。それを機に混乱に乗じ、気勢をあげるつもりなのだろうが、世の中はそんなに甘くはない。」
辰政が笑った。
「なんだと。おいずいぶんでかい口たたくじゃねぇか。」
蒼紫は言った。
「辰政。おまえの警視庁からの見解を今述べてみた。俺の見解はこうだ。今九州北部では内務省の炭鉱汚職により、人心の乖離現象が起きている。廃仏毀釈と西南戦争は、人心をつかむのに絶好の機会だったのだろうが、世界はこれからは富国強兵によって動く。上海の武器商人と手を組んだ時点で既に間違いだったのだ。」
庄三がピストルを構えたまま叫んだ。
「黙れ!」
マグダリヤが小声でささやいた。
「庄三。この人は私達のことをきっと知っているのよ…。」
「だからどうだって言うんだ!こいつはマグタリヤ様を――――。」
「もう一度同じ事を繰り返す気か。」
ここで辰政が横から出てきて言った。
「おい、天草翔伍をここに呼んでこい。こいつはそいつと殺りあいたがってるんでね。」
「辰政。」
「俺がてめぇのわけのわかんねぇセリフを整理してやるぜ。悪いがあんたの兄貴は極悪人さ。」
「兄の神を信じる気持ちは間違っていません!悪いのは傀王よ。兄はだまされているんです!」
マグタリヤの剣幕に庄三はつぶやいた。
「マグタリヤ様…。」
蒼紫は髪の下から鋭い目つきでにらんで言った。
「おまえ達二人、どちらかを選べ。今俺をここで射殺するか、天草翔伍か傀王かいずれかの所へ案内するか。こうしている間にも軍は動いている。軍の出動を甘く考えるな。」
「ちょっと待て。おまえそれじゃ俺をはめていたのかッ!四乃森!」
辰政のどなり声ももうずいぶんと遠くだ。
庄三の手のピストルが発射され、蒼紫は自分の頭から脳漿が飛び散り、頭蓋骨が砕かれて床に倒れこむ事を考える。同じような軌道を描いて、天草翔伍が苦無を持った操をその剣で乱暴になぎ払い、操は頭から血を出して闇の中でのけぞって倒れていく。
そのスローモーションのような動きは、蒼紫の頭の中に焼きついている映像だ。
生きようとする意志が不可欠なのでござるよ、と抜刀斎の声がひび割れて反響した。完全なる敗北じゃな、と翁の声もした。逃げているからそういう事になる、と比古清十郎も背中ごしにつぶやいた。
―――今ここで操に殉ずる事を考える俺は、おまえ達から見れば、拙劣な男か。
庄三は目の前の男を凝視した。
こいつは俺が撃たないという期待を抱いていない訳ではないのだ。いや、撃たない事を恐らく確信している。しかしこう考えている時点で既に、この男の前に俺は隙をぶら下げているに違いない。しかし蒼紫の気配は動かない。ここでこいつを殺した方がいいのか、今なら撃ち殺せるのではないか――――。
庄三が迷ったその時だった。横から小夜の声が聞こえた。
「お願い、庄三。私を失望させないで。この人を傀王の所へ案内して―――神は殺人を望んでおられません。お願い。」
小夜は床に崩れるようにして座り、懇願していた。神への信仰は庄三にもある。あるばかりか、彼はひそかに小夜を愛していた。本当は病弱な小夜の為になら、命を投げ出してもいいとさえ思いつめているのである。が、彼はそれを口にした事はなかった。そして庄三は、小夜の清い教えに傾倒するにつれ、かつての元々の仲間の傀王らを憎み始めていた。庄三はピストルをおさめて言った。
「わかった。あんた達を傀王の元に連れて行ってやる。しかし本当に軍が動いているのか。」
蒼紫は答えた。
「警官隊でなくて残念だったな。ここは地方なので、鎮圧に容赦はない。」
辰政がからんで言った。
「おい待てよ四乃森。貴様はそれじゃさっき軍あてに手紙を書いていたのか。」
「俺は軍になど手紙は書かない。辰政、斎藤はそれを知りたくて俺を見張るように貴様に命じたのだ。帰ってそう報告するのだな。そして志々雄真実の事件の調書をもう一度書き直すように、斎藤に言っておけ。」
「な―――なんだと、この…。」
蒼紫はまさに冷たい視線を辰政からはずすと、小夜に向き直った。
「ではお望み通り傀王の所へ行くとしよう。立てるかな。」
小夜は気丈に振り仰いで答えた。
「ええ、もちろん。兄の潔白を証明してごらんにいれますわ。」
彼女は兄の身を守る為にそう言った。
蒼紫はその様子を冷然と見下ろしていたが、すぐに横を向いた。その渺渺たるまなざしは、小夜の見知ったどの人間にもないものだった。
―――この人はなぜ私に敵意のようなものを抱いているの。
小夜はわからず、そう思った。天窓の陽は傾きかけており、蒼紫の濃い藍色の影は、小夜の心を不安にさせた。
トップへ戻る 戻る 次へ