(四)
その頃さっき逃げたマグダリヤと庄三は、やはり洞穴に作られた小さな礼拝堂の間にまでたどり着いていた。
マグダリヤは疲れきった様子で、床に座り込んでいる。
天窓には綺麗な色硝子のステンドグラスがはめ込まれ、そこから陽の光りが差していた。
「小夜。」
声がして、背の高い美しい顔をした男が別の入り口から近づいてきた。マグダリヤが顔を上げた。
「お兄様。」
「庄三。小夜を疲れさせてはならんと、あれほど言ってあるだろう。」
天草翔伍だった。庄三はうつむいた。この若者はどうすればいいのかわからぬ態で、横に立っていたのである。翔伍の立ち居振る舞いには、ものすごい威圧感があった。
「すいません。変な連中が礼拝に参加していたので。」
「政府の密偵だな。どこへ逃げた。」
「逃げてきたので。三人いました。」
「三人か。よい。今は捨ておけ。ロレンゾ、下がれ。」
翔伍は言うと、小夜の手を取り立ち上がらせた。小夜は翔伍の胸にもたれかかるとようにした。それをかばうようにして、翔伍は長椅子に座らせた。翔伍も横に座った。小夜は言った。
「ペンダントをなくしてしまいました。あれは大切なものだったのに。」
「では私のを与えよう。」
「いいえ。お兄様と私のペンダントは、お母様たちからの形見です。お兄様はお兄様で持っていらして。」
小夜は不安そうに目を閉じて言った。
「お兄様ひとつたずねてもよろしいですか。京都の叔父様のところで何をしてらしたの。」
「……………。」
「きっと叔父様は心配していらっしゃったでしょう。だって私達―――あの時―――。」
小夜は小さく肩をゆすって咳き込んだ。
「私ずっと叔父様達のそばに居たかったわ。」
「あんな暮らしではおまえの病気はよくならない。」
「高いお薬を飲んでも治らないわ。私、わかるの。もうすぐ私、神に召されるのね………何もかもが真っ白になって………。」
翔伍は暗いまなざしで、もたれかかる妹をそのままにしていたが、やがて立ち上がって言った。
「小夜。私はこれから信者の者達と、あの四百年前の幻を善きものとして復活させねばならん。時は来たれり。今こそ信徒五百名の者と立ち上がり、正しき事は何かを、世に知らしめねばならぬ。」
小夜は威厳に満ちた兄の姿を、その透明な光の宿る瞳で見つめていたが、やがて静かにうつむいて言った。
「でも私はきっと、お兄様の足手まといになりますわ。」
「そんな事はない。何もかも小夜、おまえの未来のためなのだ。もう体を押してミサを行う事もいらぬ。ずっとここで休んでいるのだ。ここは閉め切れば安全な処だ。」
「はい。」
翔伍はその時、ふところから一丁の銀装の短銃を取り出した。
「用心の為におまえに渡しておく。庄三にも持たせる。私はここにばかりいられないからな。」
小夜の顔色が変わった。
「お兄様、私にそれを使えとおっしゃるの。」
「使い方は簡単だ。まず撃鉄を起こしてから引き金を引く。この銃は装填式で六連発撃てるようになっている。おまえは使う必要もないだろうが、持っているだけでも違うものだ。」
「お兄様。」
小夜は立ち上がったが、その全身に絶望の色が彩られていた。翔伍はそんな妹の様子には気づかないのか、そばの岩肌を一発銃で撃ち抜いた。
「驚かせたか。だが政府の連中はこんなものをもっと用意している。決して外へ出てはならぬ。」
「………わかりました。」
翔伍が去っていくと、小夜はどっと床に膝をついた。
「お兄様……私にはもう、何もかもわかりかけているの……でも、お兄様には言えないの………。」
小夜はその目に白い涙をあふれさせ、肩をふるわせ手を組み合わせた。彼女はそれでも、兄の贖罪を祈っているのだった。
「めでたき成長ましますマリヤ、主は御身にまします。主は御身に満ち………。」
小夜の祈りは続いた。そばに短銃が光っていた。
†
「今銃声がしたな。」
蒼紫が顔をあげた。辰政が洞窟の高い天井を見上げた。
「そんな音したか?いつまでここで待ってるんだよ。何考えてんだ。」
「何も考えてない。猩々が帰るのが早ければいいと思っている。」
「何を書いたんだ。」
「貴様には関係ない。」
「おい。なんで右の道をさぐりに行かねぇんだ。おじけづいたのか。」
「―――来たか。」
蒼紫は急にふらりと立ち上がり、腰の刀に手をかけた。
「なんでぇ。さっきまで死人かゴミくずみたいに座ってやがったのによ。」
と、辰政は言ったが、洞窟の奥に黒い野犬の群れが現れ、牙をむいてこちらに走って来るのを見て驚いた。
「おい。わかってたんなら早く言え!」
蒼紫は無言で剣をふるった。たちまち何頭かが頭蓋骨から真っ二つに裂けた。血しぶきが飛び、叫喚があがった。見ていて、人間に対する以上に、気持ちのいいものではなかった。
「かーっ、すごいねこりゃ。久々に御頭さんらしいぜ。」
蒼紫は言った。
「辰政。そこにさっきの男がいる。拳銃を握っている。」
「なんだと。」
構えている蒼紫を見て、あわてて辰政も抜刀した。
「チッ、斎藤に飛び道具ねだっときゃよかったぜ。」
蒼紫は目の前の暗黒の空間をにらんでいる。犬が低いうなり声をあげてまたとり囲んできた。
と、チィンと岩に一発がかすめ飛んだ。
「出て来い!政府の犬!全員神の御名において撃ち殺す!」
辰政は声に言った。
「犬使ってんのはてめぇだろ。」
「辰政、下がっていろ。」
蒼紫は言うなりダッと走り出た。犬の群れが襲ってきたが、全部なますのように斬り刻まれていった。
思わず呑まれた庄三に向かって、蒼紫の拳が入った。刀を持ったままの拳技。ピストルが地に落ちてころがった。
「―――クッ。」
庄三はしかし、蒼紫に向かってきた。腰を落として巧夫の構えである。脚が空を切って、蒼紫の頬スレスレに飛んだ。
続いての連続技、目にも止まらぬ速さで、庄三の徒手強拳が打ち込まれていく。だが、蒼紫に受けられるばかりか、そんなにも激しく動きまわっているにもかかわらず、明白な隙があるのか、蒼紫のコートは風を切り、身をひるがえしてよける。
庄三は力の極限を感じた。自分の力と技のどうしても及ばない、高い黒々と切り立った断崖のような―――それはあの天草翔伍に常日頃感じていたものと同質のものか。
―――この男は笑っていない。
しかしその思念は庄三の心を、ほんの一瞬かすめたにすぎない。
―――勝てそうにないからか。くそっ。
と見た瞬間、蒼紫は小太刀の下から拳を繰り出した。庄三は小太刀を当然よけて動いていたので、虚をつかれた形になった。
「ううっ。」
倒れた目の前に剣先が突きつけられた。
「さっきの者のところまで案内してもらおう。」
「マ―――マグダリヤ様のところへだと!」
「あれは天草翔伍の妹だろう。拒否すれば殺す。」
冗談じゃない、と叫ぼうとして庄三は息を呑んだ。
蒼紫の沈み黒ずんだ静けさの頭上に、ありありと真空が見える。この男は今拳で自分と渡り合ったが、犬と同じように本当に斬るつもりだ。
庄三は立ち上がり、拳で口の血をふき答えた。
「わかった。」
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