(二)
夜―――――。
今、彼ら三人は先程の場所から更に目的地に近づいた、やはり海岸線で夜営をしていた。蒼紫は焚き火をする辰政、猩々らから少し離れた所に座っていた。眼前に黒々とした海が広がり、夜風が痛む頬をなでていた。
―――武田観柳の館か。
今頃思い出すとは。
辰政が蒼紫に言った言葉は半分は当っていた。蒼紫はあの館で剣心に敗れた時から、正確にはその事を思い出すのをやめていた。
復讐心へと己れへの慙愧の念をすりかえていたのである。それは帝都という魔都に埋もれてしまえば、堕ちてしまう陥穽だったのかも知れない。
蒼紫はあの頃落ちぶれた幕閣の者にも呼ばれたが、きらびやかな華燭の宴にも出かけた事があった。むろん仕事としてだが、大物と呼ばれる政治家の陰の始末を頼まれた事もあったのである。やがてそれは選ぶに関わらず淘汰されて、武田観柳の館へとたどり着いた。陸軍省からの横流し品が大陸へ輸送される。初めはそう聞いた。そこへ用心棒として入るようにある政治団体に言われた。
観柳もその事は心得ていたが、蒼紫が軍から一枚かんでやって来た事は知らなかったはずである。
―――ところが奴は知っていたのだ。
それを蒼紫に気取らせないように、あの男は高荷恵を利用した。わかれば簡単なカラクリである。そう考えれば全ての辻褄は合うのだ。
―――奴は最初から俺たちを殺すつもりだった。女に阿片を目の前で作らせて、自分がいかに愚劣な男かをことさらに俺に向かって演じてみせていたのだ。猿芝居だった。
高荷恵はあの館で阿片を作っている必要はなかったのだ。元会津藩の御典医の一族の娘。蒼紫を観柳と同じ青年実業家だと最初は見て、救いを求めるとともに媚態を示してきた女。しかし単なる用心棒以下の存在と知った途端、その目は侮蔑に変わり、態度は驕慢になった。
―――私は士族。落ちぶれても士族の女よ。けがらわしい。
そう袂を振って立ち去った時、蒼紫は顔には苦味のある笑いを浮かべていたが、その頃得た抜刀斎潜伏の情報で、ここで血祭りを上げてやると算段を瞬時に弾いたのだった。単純にして血も凍るほどに冷血。翁が見たらそう評したに違いない。しかし武田観柳も武器密輸で甘い汁を吸っていたし、高荷恵も口では士族と言いながら、誇りを捨てて阿片密造に手を染めていた。阿片密造は細心の設備もなしに行えば、指から吸引し中毒を引き起こす。失った家族を探すため、命を賭してでも逃げればいいものを、絶望とわけのわからぬ復讐心から密造に手を貸したのだろう。昼間も澱のかかった瞳でふらふらと歩くこの女を自害に追い込み、武田観柳を射殺し、抜刀斎をおびき出して斬殺する。あの鵜堂刃衛を退治して、政府高官の影の噂で評判になりつつあった緋村抜刀斎の真の暗殺者としての過去を知る者としては、この血の饗宴の景色は申し分のないものに思えた。自分も腐っていたが、自分以上に腐っているものは酸鼻を極める前に握りつぶす。それがあの堅牢にして)とした三階建の明治の建物にはよく似合っているように思われた。
そして――――。
誰もいない武田観柳の館のテラス付の夜の食堂の間に、蒼紫は一人立っている。もうすぐこの館から出て行く。
白いテーブルクロスのかかった机で、さっきまで武田観柳は食事をしていた。赤い絨毯の上で観柳は、息をひきとっている。三階では高荷恵が自殺している。二階のダンスホールでは緋村抜刀斎が、せっかくつかんだ第二の人生を失って、放心の態で斬り刻まれている。自嘲とも蒼紫への軽蔑ともつかぬ微苦笑を死に顔に浮かべながら―――拙者ほどの男を斬って、何が楽しいでござろうよ。拙者ほどの――――自分のような小者として生きている人間を、という意味と、かつての自分の苦しみがおまえなどにわかるかという、王者の如き尊厳。貴様がそういう男だから斬ったのだ。抜刀斎の言葉は時に二重奏を奏でる。普通の者には聞こえぬその)を、蒼紫は聞き取る事ができる。
―――俺も貴様の)のような、血まみれの)を握っている。
コトリと音がして、蒼紫は細長い窓の方を向いていたのを、振り返る。テーブルの上にあった銀の皿の数が増えている。薄暗い光線の中で、皿に盛られたオードブルや季節はずれの果物の鉢、冷えた)料理がそれ自体の陰影を伴って、クロスの綿布の上に置かれていた。その後ろの背の高い椅子に観柳の代わりに純白の襟元の開いたドレスを着た操が座っていた。
操は蒼紫の視線を感じたのか、そっと唇の上に手をすべらせつぶやいた。
「冬みたい。」
すべては光彩を失った物憂いフィルムのようだ。操の途方にくれた表情に、造物主の与えたもう乙女の資質を感じ、蒼紫は心の中で微笑する。だが)かなる気配を感じて、蒼紫はこの)の均衡を崩す静謐なる影の主に目を向けた。
「私の孫娘をそれほどこの椅子に座らせたかったのかね。愚かな。」
声は憐れみを帯びたあの老人のものだった。たちまちにして夢想の館は四散し、蒼紫は年若い姿で林の中に立っている。霧雨が空から降っていて、地面に二本の小太刀が破れ去ったままの形でころがっていた。蒼紫は屈従の姿勢で片膝をつき、小太刀を拾い上げる。―――――愚かな。
蒼紫はまどろむ瞼をあげた。夜明けの薄明かりの中に、観柳邸で死んだ四人の幻がほの白い姿で立っていた。
―――俺の下らぬ野望の為に命を落とさせてしまったな。すまぬ。
蒼紫は深く頭を垂れた。御頭、辰政と猩々はああいう奴らだけど、ちゃんと面倒みてやりなせぇよ。俺達より面倒かけると思うけどな。それにしてもそれほどならば一緒に連れて歩きゃよかったのに。操はそういう女ではないんだ、ですかい。あの目はきっとよくなりますよ…………。
蒼紫は薄明の光の中で、しばらく影のまま動かなかった。
「そうか。」
一言つぶやくと、彼は二刀を束ねて腰をあげた。そして朝の海岸へと降りていった。
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