第ニ章 島原 上 

(一)

 狭霧に船の黒い影が浮かぶ湾を見渡せる位置に、その洋館はあった。
黒檀をふんだんに使った黒の調度でまとめられたその一室には、やはり海をよく見下ろせる窓があった。
その部屋の中を、今、背の高い金髪の女が、優雅な身のこなしで歩いていた。
女はサイドボードの上に、黒い黒曜石を刻んだ十字架の首飾りを首からはずして置いた。そして寝台の男を振り向いて言った。
「傀王様、天草翔伍、うまく大陸に渡る事ができるでしょうか。」
「そうだな。よくやってくれているが、少し石頭だからな。信徒を増やすはいいが、烏合の衆と知りつつも面倒を見る気でいるらしいところがある。奴らはより強い者の教えや導きを乞うて集まっているに過ぎんと、あの男わかっているはずなのだがな。存外やさしい男なのかも知れん。」
「妹が死んだらあの男は変わるわ。」
「フ―――氷のように冷たい女だな。あの男の妹とはえらい違いだ。」
女はつ、と寝台のそばに戻ると、傀王と呼ばれた男の手にグラスを差し出した。傀王は言った。
「何故翔伍の前に姿を見せん。」
「言ったでしょう。私はくの一ですのよ。妹が死ぬまでは顔を見られたくありませんわ。驚く顔が見ものですわね。」
「我々がまた大陸に戻ると知った時にか。」
「ええ、そう―――私が愛しているのは傀王様だけですもの。上海にまた戻るのね。」
「そういう事になるな。しかし何故それほどまでにあの男を嫌っているのかな。」
女はウェーブのかかった金髪をかきあげた。
「母はらしゃめんでしたから―――。」
「しかしおまえもキリストの教えを信じておる。」
「死んだ母が信じていたから。それだけですわ。」
「十字軍の遠征にも、おまえのような女がいたのかもな?」
「清廉潔白な方々と私のような女を同列にすれば、ああいった男が怒りますわ。」
「それぐらいの働きをしておる。来い、朧。」
朧と呼ばれた女は、朱の唇をひきあげると、黒レースのローブを脱いだ。
妖艶にして豊満な白い身体は陶器のようで、月光を浴びて、白い肉の厚い薔薇だった。
「本当は何もかも凍りつかせてやりたいの。」
「あの男の心もか。それでも大陸へ無事渡れるかどうか心配をする。そういう事か。」
傀王は低く笑うと、朧の身体を抱き寄せ、その精悍な腕の下に抑えていった。

                                    †

蒼紫は大阪から船に乗り、九州に渡った。
門司港から島原半島までは徒歩である。途中、いくらか海岸線が続く道がある。
今、蒼紫はそういった海岸のひとつを歩いていた。が、街道筋ではない。途中で意図してはずしたのだ。
―――つけられている。
乗客でにぎわう船の中では気がつかなかった。自分の勘がにぶっている事を認めざるを得ない。
船の中では別の事―――今回の事件と東京とのつながりについて考えていたのだ。それには膨大な情報量を整理していく必要があった。真相を知れば単純な事でも、蒼紫はそういう男であった。が、蒼紫はその考えよりも今は背中に貼り付いてきている人間について考えている。
―――認めたくないが、そういう事か。
蒼紫は目をすえると、断崖の上に出た。下は岩場だが、目のくらむ距離である。蒼紫はトランクの手荷物を下に落とすと、静かに身を下に傾けた。
「――――!」
崖の上を小走りに走りよってきた二つの影があった。
「いない。」
「落ちたか?こんなに簡単にくたばるとは。」
一人は大きな傘をかぶった小男で、もう一人は背の高い男だが、二人で身をかがめて覗き込んでいる。
と、傘の方の年若い男の方が、指差した。
「あそこだ。でも見つかってしまいましたね。」
「ケッ、そうだと思ったぜ。例のトンボ返りか。まさかあの年でもやりやがるとは。」
蒼紫が空と紺碧の海を分ける板状に広がった柱状列石の上に立っていた。
コートからその腕を引き抜くと、左手に一刀を握っていた。背の高い男が立ち上がった。
「ありゃあ威かくだな。ついて来たら斬るって事だね。」
「御頭の性格、よく覚えているね、辰政は。」
「俺の方が奴とはつきあい長かったんだぜ。少うし恨みもあるしな。来い、猩々。」
二人は崖を走り出した。すぐに姿を消したが、蒼紫はしばらくそのままで立っていた。
と、その時彼方から手裏剣が飛んできた。
「―――無駄な事をする。」
蒼紫はつぶやくと、手裏剣の流れを剣で止めながら、その方へと岩場を移動し始めた。
そのまま手裏剣の軌跡の頂点へ蒼紫が飛び掛ろうとした時、大きな岩の影からさっき辰政と呼ばれた男が猛然と斬りかかってきた。
横合いからである。蒼紫は受けて言った。
「辰政。」
この男は待ち伏せしていたのである。腕はかなりたつらしく、剣で蒼紫を追い込み始めた。豪腕で野の剣をふるうタイプである。しかし剣さばきは正確だった。
「なんでぇ。右腕は片輪か。」
と、辰政が言った時、蒼紫はサッと退き、軸足で円軌道を描きながら飛び退り、弓の如く刀を閃かせた。
「うわッ。」
辰政はあやうく逃れた。蒼紫は表情も変えずに言った。
「よけられたか。もう一人は猩々だな。貴様も来るのなら、両腕でいく。」
「俺は嫌だよ、辰政。」
辰政と呼ばれた男は声に向かっていまいましそうに言った。
「チッ、こいつの腕はなまっているってあれほど言ったのに、臆病者なんだからよ。これぐらいアイサツなしじゃあ、俺としてもな。」
と、刀を納めると、辰政はあごをしゃくり、傘の男を呼んだ。
「)。てめえも出て来い。元御頭さんだ。」
)と猩々―――二人は元は隠密御庭番衆である。辰政は先代御頭の頃からいた男で、元山賊の出自で蒼紫よりも年上だ。
蒼紫は幕末の頃、ふくれあがった隠密の数を整理した事があった。それは近代戦に入ると、むやみな諜報活動は必要ないと考えたからである。辰政は主に賭場やヤクザ関係盗賊関係の情報筋を仕入れてきた男であったから、その時左遷した。すると辰政は京都の翁に訴え出て翁配下として収まり、維新になると姿をくらました。
この蒼紫の任を解いた件をいまだ不服と考えている者もいるのだが、辰政もその一人である。その風貌には獲物を放さぬ群狼の剽悍さとしたたかさがあった。
もう一人の猩々の方は、蒼紫よりも若い男だ。大きな傘に「弐心」と自分で大書していて、それでめったに顔は見えないのだが、その上にまだ猩々緋の面をつけている。小男で、この者は辰政と違い、剣の覚えのない山の民である。無学だが武士にはあこがれていて、そういう事をしているのだ。しかし猩々には忍びの心得がある。武器も山刀と手に持つ錫杖が三節棍に変化する。猩々は主に連絡係をつとめて江戸と京都を何度も往復していたが、維新の時、蒼紫の元を自ら辞して去った。また蒼紫もそれを止めなかった。考えが卑屈で皮肉なところがある上に幼く、顔も童顔で肩にはみのむしろをかけていた。猩々は出てきて言った。
「御頭、俺は死んだ般若とはちがうけど、この面はとらないよ。御頭を見張るように言われたんだよ。」
「バカ。こいつを御頭と呼ぶな。こいつはもう御頭なんかじゃねえんだ。おっとにらむなよ。俺やこいつを斬ったら、悪即斬であんたや葵屋がどうなるかわかんねェぜ。」
「斎藤―――」
「そうあいつだよ、あいつ。元新撰組のダンナ。あいつが俺に旅行付きのいい仕事があるとか言うからよ、来てみたんだよ。なんせ落ちぶれた元御頭さんの顔を拝めるとあっちゃよ。仕事もアンタが殺すまで横で見てりゃいいらしいしよ。そんで猩々も呼んだのよ、な、猩々。」
「斎藤のダンナに二人一組て言われたんだよ。」
蒼紫は二人に冷ややかに答えた。
「愚かな。これから死地に入るのだぞ。」
辰政は答えた。
「なんだと。てめェのその機械みたいなしゃべり方が気にくわねェんだよ。いいか。しゃべるな。俺から言ってやる。」
「辰政、あんまり怒らせない方がいいね。」
「うるせぇ!いいか四乃森。てめぇ精鋭かなんだかしらねェが、般若火男べし見式尉の四人を玉砕させたそうじゃねェか。え?武士の覚悟かなんだか知らねェが、イカれてるね。てめェにあん時首切られて俺ぁよかったよ。誰がてめぇみたいな人間の為に死ぬかよ。気取りやがって。腕がたっても、こちとらごめんこうむらぁ。ま、これからはもう政府の下僕扱いらしいからよ。俺があの世の四人になりかわってあんたの行動をせいぜい監視しといてやらぁ。」
「辰政の言い方はキツイけど、俺もそう思うよ。般若やべし見はかわいそうだったよ。御頭がどうしてあんな仕事をしていたのか、俺にはわからないよ。」
「決まってるじゃねェか。こいつは太公望気分で、その緋村とかいう剣客まで始末しようとしたんだぜ。策士だからよぉ。策士策に溺れて二兎を追うも一兎も得ずってヤツ。生きててもみじめなもんだよなあ。」
ここで辰政は歯をむいて笑った。蒼紫は沈黙して立っていた。猩々は言った。
「俺は辰政と来たから辰政の言うことしかきけないからね。御頭。でもその―――その―――。」
「四人が死んだ理由か。あの四人は武田観柳に撃たれた。」
瞬間、蒼紫の顔に辰政の拳が飛んだ。
「そんなごたくは斎藤から聞いてるんだよ。いいなあ、うすのろと天才の会話は。」
蒼紫は無様な態で立ち上がった。口から血がにじんでいた。辰政は言った。
「てめぇよりも物知りの俺が教えといてやる。島原には傀王って奴がいるんだとよ。まあ悪の親玉だな。上海から来た武器商人だと。フン、越後屋ってとこか。そいつを退治すりゃいいんだ。やってくれよ四乃森。」
「そんなに簡単ではない。」
「なんだと…てめぇ。ま、観念したようだからもう少しいたぶっとくか。まったく警視庁のお墨付きってのは免罪符だよなあ。」
「辰政はそんなつもりだったんだね。もうやめといた方がいい。」
「うるせぇんだよ!!!ここでしめとかねぇとよ。さっきみたいなマネされると困るからよッ!!!」
「辰政…やめるつもりないね。」
猩々は下を向いていたが、辰政は構わずほとんど抵抗というものを見せない蒼紫を蹴り続けた。

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