(七)
「あれ。蒼紫様。」
お増はその昼さがり、操の部屋に膳を持ってきてのぼってきて少し驚いた。
蒼紫が無言でそこに座っていたからである。
「操はんだいぶようならはりましたえ。落ち着いて話はるようにならはりましたさかい。」
そう言って、操に食事をとらせようと手ぬぐいをあてた時、蒼紫が静かにさえぎった。
「俺にやらせてみてくれないか。」
「は‥‥‥はい‥‥‥。」
お増は心配気に階下に降りて行った。
蒼紫は銀の匙で白がゆを操の口に運んだ。
操はゆっくりと食物を呑み込んだ。
しばらくその動作が続いた後、ぽつりと操が言った。
「いつものお増さんじゃない。」
蒼紫の手が止まった。
「誰―――男の人?」
蒼紫は答えられずにいた。
彼はかつての自分を考えていた。
―――二度と俺の前に姿を現すな――――。
かつて彼は操に、御庭番衆の御頭として、常套句のこの言葉を投げつけた事があった。その事が、今蒼紫の心をさいなんでいた。
ところが操はあどけない調子で少し考えてから、こう続けたのだった。
「私知ってる。私にやさしかった人。蒼紫様。」
操はそこで微笑んで言った。
「蒼紫様どこにも行かないでね。」
蒼紫の心はとまどった。操の心が今どの辺にあるのか、彼にはわからないでいた。
―――幼い日のつもりでいるのかも知れない。
彼はそうなろうと努力した。
従って静かな動作で、銀の匙で操の口にかゆを運ぶことを繰り返したのだった。
蒼紫は自分が、とても年老いてしまったような気がした。ふと彼は思った。あの緋村ならば、そのまっすぐな瞳に答えられるのはおまえしかいないと―――今こそ盲目の操の手を取り、抱きかかえてやるべきなのだと言うのだろうと。
―――俺にはその資格はない。
俺は操を守れなかったのだから。いや、もうずっと以前からはっきりとでなくても、そう感じていた気がする――――。
やがて操はかゆを全部食べたので、下げようとした時だった。蒼紫は行こうとして驚いた。
「蒼紫様!」
操が畳に手をついて倒れていた。起き上がろうとして転倒したのだった。操は大粒の涙を流していた。
「蒼紫様、行かないで―――戻ってきて。お願い約束して。」
操は肩を震わせ、きれぎれにそう言った。取り乱してそう言っているのだが、実際蒼紫は葵屋を出るつもりでいた。
蒼紫は膳を床に置くと、操の腕をつかんで引き寄せた。
「戻ってくる。約束する。」
「ホントに?本当に戻ってきてくれる?」
「ああ。本当だ。」
操の顔がパッと一瞬輝いたのが、蒼紫の瞳の中で反射した。
―――笑ってる‥‥‥。
膳を下げに来たお増は廊下で少し驚いた。
本当は様子を見に来ただけであったのだが、襖のかげからのぞいた蒼紫の横顔が、少しばかり優しく微笑んで見えたので、心底ビックリしたのだった。
同時に自分などが見てはならないものを見たような気がした。
―――操はんは、今のあのお方の顔は見えへんのどすからなあ。
お増はそっと涙をふき、用心しながら足音を忍ばせて階段を降りて行った。
蒼紫は翌朝の朝早く、葵屋を出立した。行き先を島原とだけ告げて出てきた。
―――みんな。葵屋で操を守っていてくれ。
彼は今、淀川の堤の近くまで来ていた。ここから先はもう、京ではない。
と、道程標の石塔のそばに、異様な風体の男が一人立っているのを目にした。
「久しぶりだな。」
比古清十郎だった。白木の大剣を肩に担いでいた。
「どうして俺のところへ来なかった。警察のヤツらが俺のアリバイについてしつこく尋ねるものだから、何かあると思ってな。お前が行く前にあの教会へも俺は行ったんだが。」
比古が言うのを、蒼紫はさえぎった。
「あの老人は死んだ。」
「そうだったな。俺も後で墓参りをした。しかし飛天御剣流の事なら俺にまず相談するのが筋ってもんだろう。俺はこれでも葵屋を救った事もあったんだがね。」
「礼が欠けていたのならあやまる。先を急いでいるのでな。」
「まあ待て。俺が奴らを野放しにしているのが、我慢ならないってツラだな。実は奴らは俺達の流儀では、存在しない事になっている。戦国時代に邪教を信じたからだ。」
「今も信じているようだが。」
「そうだ。狂人に刃物というヤツさ。しかし今の話で、俺が出て行くわけにもいかない事もわかってもらえたかと思う。」
蒼紫はザッと砂を蹴って、比古に向き直った。
「つまりあなたが行けば、あれを飛天御剣流のものと認める事になる―――そう言いたいのだろう。」
「さすがに頭がいい。俺の弟子とはえらい違いだ。」
「緋村の弁証法の使い方は、あなたに学んだようだな。」
「俺は無益に殺生を好まないんでね。今ここでお前と殺りあっても何の意味もない。」
「それはこちらも同じ事だ。」
「しかしそのまま島原へ行っても、確実にお前は負ける事になる。」
蒼紫は比古の顔をにらみつけた。比古は唇の端に笑みを浮かべていた。
蒼紫は言った。
「何か言いたい事でもあるようだな。」
「あるさ。葵屋の娘はいい娘だった。ああいう娘を悲しませてでも剣の道をとろうとするから、そういう事になる。ひとつ教えておいてやろう。あの老人やお前の女を襲った技は、我らの流儀に奴らが勝手に新しく付け加えたものだ。我が流儀の奥義は天翔龍閃だが、本来九頭龍閃をもって、基礎となすべき流儀なのだ。」
「九頭龍閃?」
「剣法の極意だ。これ以上は貴様には教えん。で、そいつが何を付け加えたのかも俺にはわかっている。―――二階堂平法・心の一方。名づけて雷龍閃。俺はいかずち系と呼んでいる。ま、禁じ手だな。」
「禁じ手とは。」
「相手の気を奪う技だよ。」
「非科学的だな。気を呑まれたぐらいで、ああいう状態は長くは続かん。」
「相手を殺せば技は解けるそうだ。ま、殺すぐらいの気迫でがんばれ。どうしてもダメな場合は俺がそいつを殺してやる。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」
「どうした。何か不服か。」
蒼紫は冷ややかに答えた。
「俺が死んだ後の事は俺にはもはやわかりようもないから、何もできないが、これだけは言っておく。二階堂平法の心の一方は催眠暗示だ。そして雷龍閃はこれとはちがう技だ。」
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