羌族について
太公望呂尚は、一名羌子牙とも若い頃は名乗ったといい、羌族中の一部族の出身であったろうと思われます。羌族とは、殷の時代、崑崙山脈一帯にいた遊牧民族であり、彼らの多くは農耕しなかったそうです。「羌、その声は羊の鳴く声に似たり」と古書にあるとおり、古代中国語を話したかどうかも不明です。甲冑文字では多くは、羊を表す記号が、羌族のことです。彼ら遊牧民の力を得て、周は万全の体制で殷を「牧野の戦い」で後顧の憂いなく打ち滅ぼすことができたと思われます。
なお、殷は祭祀の際に、羌族などの少数民族から奴隷を狩って、それを生贄に捧げたといいますが、一説によると、紂王はこの数を父の帝乙の時代よりずいぶん減らしたというそうです。それでも、暴君と呼ばれたのですから、よほどの失政があったのでしょう。


紂王の子孫について
「封神」に出てくる、殷郊殷洪兄弟(紂王と羌氏の子供)と黄家のつながり、軍師聞仲との確執は実際にあったことでしょう。しかし、正史にはあまり登場しません。紂王には子孫はなく、後をついだと言われる禄父(武庚)は、「宋」の国に封じられましたが、紂王の子供ではなく、周の武王の弟らと共謀して反乱を起こし、平定まで武王の死後周公旦は幼い帝を抱えてたいへんだったといいます。そのあたりを描いた小説が、「周公旦」酒見賢一著 です。
よくこの禄父は、間違って紂王の子供とされていますが、母親の出を表す、十干が「庚」というグループなので、紂王のいた「辛」グループの家ではない、との見解がありました。(宮城谷昌光「史記の風景」 より)この禄父亡きあと、一族をまとめたといわれるのが、孔子の「論語」に出てくる微子啓の子供、微子開です。微子啓は紂王よりも上の家の出自の異母兄でしたが、温厚な性格で、学を好み、紂王の治世下ではずっと沈黙を守っていたといいます。また、先ほどの箕子も紂王の叔父にあたり、紂王に風狂の態で、その失政を訴えたところから、孔子はこの二人にやはり紂王の叔父の干子(比干)を加えて、「三仁あり」として尊んでいます。


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