紂王さまの部屋

ひさしぶりに描いたものを、お見せいたします。これは落書き用ノートに描いた紂王様です。老けた紂王様があまりに悲しいので、若返った紂王様なのです。史実ではこの時、三十七歳前後。よく「竹書紀年」という、「史記」と並んで殷王朝のことが書いてあるものの年代の数え方を間違っている人が多く、「封神演義」はその間違った数え方により、在位年数が大変長くされてしまっています。(参考図書「よみがえる文字と呪術の帝国ー古代殷周王朝の素顔ー」中公新書 平勢隆郎著 他)ジャンプのコミックスは「封神大全」によれば、在位十数年の、新しい甲冑文字研究にそって描かれているようです。(でも老けていますが)今でもたまに、昔の数え方のままで描かれた「太公望」本も見かけます。

紂王様を描いた小説では、宮城谷昌光先生の「王家の風日」と狩野あざみ先生の「天邑の燎煙」が、ダントツにいいです。宮城谷先生はこれは箕子を描くために書いたと言っておられるのですが、文庫の解説者はやはりこの小説の主人公は紂王(受子)である、と言っており、登場人物の一人遺臣えい廉に「生まれるのが早すぎた天才かも知れない」と言わせている、と指摘しています。ちなみに紂王は、太公望ら羌族の民が恐れてつけたあだ名であり、本名は「帝辛」と言います。同様に、国家名の「殷」も後の時代の人々がつけた呼び名で、王朝が実在した頃は、「商」といいました。現在の「商人」というのは、この「商」の民が非常に商売が上手であったから、この字が当てられるようになったといいます。紂王の紂には、騎馬の際に使用する「しりがい」(馬の尻にかける組み緒)という意味があり、「狩り」を非常に好んだことから、このあだ名がついたらしいです。コミックスでは「酒池肉林」「炮烙の刑」「たい盆の刑」という、恐ろしい処刑や歓楽を妲己にやらせたふぬけた王様として描かれていますが、「史記」などでは「紂は多才な人物であり、弁舌もたち、素手で虎などの猛獣もなぎたおせるほど力が強かった」と書かれています。しかし性格はやはり、冷徹なところがあり、周の伯邑考を殺して父親の姫昌にその肉を羹(スープ)にして食べさせただけではなく、叔父の比干の心臓をえぐったり、大臣の九候を醢(しおから)の刑にしたりしたそうです。しかしながら、鹿台という巨大建築や沙丘という離宮を造営し、倉を蔵穀で満たしたのは、後の世が指摘するように贅沢三昧をしたいためではなく、ちょうど貨幣経済への転換期にあたり、紂王は貨幣制度を敷いた結果、大量の備蓄米を必要としたのではないか、との指摘もあります。また、周の姫昌は実は紂王の縁戚にあたり(二代前に一族から正室を差し出している)、殷王室としては、周は攻めにくかったのかも知れません。何度も周を攻撃できる機会はあったのですが、紂王はそれをなさず、南方へ討伐に出た隙に「牧野の戦い」へ突入したという解説もありました。なお、「史記」によれば、父姫昌(文王)の喪があけずに戦争を始めた武王に対して、孤竹国の伯夷叔斉の兄弟は走り出て、それは義ではないと諌めたといいます。彼らは周が勝った後も周に頭を下げるのを嫌がり、放浪の果てに餓死したことを孔子は「論語」で理想に死んだ者であるとたたえています。

テレビ版では紂王は若いままで死んでいます。この(「妲己封神」)前の前の回で、息子たち殷郊殷洪に向かって王の有り様を説いている、まだ賢明であった頃の回想場面は本当によかったです。まあしかし、最初に本放映で見たときは、そんなにいいとは思わなかったのですが・・・。なにしろ紂王は悪役の怪物に変化していますし、歴史的な背景も知らなかったのです。しかし調べるにつけ、世間で一般的に流布している説が、本当だろうかと思うようになりました。夏、殷、周と説話によれば、すべて美女によって王朝が滅んだとされていますが、あまりにも同じことの繰り返しなので、疑ってしまうのです。
この、藤崎竜先生がとった、夏のけつ王を迷わせた妹喜も殷の妲己であった、とした小説に、菊池秀行先生の「夜叉姫伝」があります。妲己は十字架やニンニクがきかない絶世の美女バンパイヤとして、描かれています。なお、滝沢馬琴の「八犬伝」にも、最初に狐尾の変化の玉梓を説明する場面で少し、妲己は出てきます。かの「殺傷石」で有名な「玉藻の前」伝説も、妲己が九尾の狐であったというところから、始まっています。
かく言われる妲己ですが、資料によって、諸説様様。「十八史略」では、周の周公旦(武王の弟)が蘚氏からもらい受けて、紂王を磊落するために養ったとありますが、これなどは後の世の人が面白おかしく書きたてたものでありましょう。最もらしい史実としては、紂王が南方(一説には北方)の有蘚氏を討伐に出かけた際に、人質として差し出された娘が妲己であったらしいです。当時の名前からして、「己家の妲という名前の娘」であり、それは決して高い家柄ではなかったようです。なお、紂王が最初に正室として迎えたのは、九候(多分これが東伯候)の娘であり、これが「封神」での羌氏であるらしいです。

戻る
まだもう少し、駄文を読む