「月の桂」
第一章 偏在 (六)
三蔵とゼロは、渓谷の中に立てられた小さなテントのそばにたどりついた。テントのそばには、馬が戻って草をはんでいた。三蔵は「もう大丈夫だ。」と言ってゼロの背中から降りた。
「今日は私と一緒に泊まっていくといい。町まではずいぶん距離がある。まださっきの連中がうろうろしているかも知れん。」
と、ゼロは言った。三蔵は同意した。
谷間に水を汲みに行ったり、夕飯の支度をしながら、三蔵はぽつりぽつりと自分の身の上を話した。どうして自分が一人で歩いているのか。何故自分は僧侶なのか―――ゼロは三蔵の身の上話をじっと聞いていたが、やがてこう言った。
「おまえは、じゃあ、運命に選ばれたんだ。」
「運命?」
「そうだ、運命だ。神とは言わん。神と言ったら、語弊がある。おまえには試練が与えられたんだ。その額の印はそういうことだ。」
「御仏が・・・。」
ゼロは三蔵が言いかけると、溜め息をついて言った。
「御仏とは思いたくないな。俺は貴様のいた寺の連中は、うさんくさい奴らだと思っているんだ。」
三蔵が鼻白んだ顔になると、ゼロは煙草をポケットから取り出して口にくわえた。二人は今、夕飯を前に焚き火にあたっていた。ゼロは言った。
「いいか。考えてもみろ。貴様の寺では、人を殺してはいけないと教えている。しかし、貴様には銃を渡して、自分の身は自分で守れ、と言い渡して旅に出した。確かにその、天地開元経文とやらは大切なものなのだろう。しかし、何故貴様一人でやらないといかん。貴様は、はめられたんだ。その寺の坊主どもにな。貴様は人がいいから、そう見抜けなかったのだ。」
「でも、俺が自分で取りに行くって約束したんだから。」
「だからそれだ。貴様が自分でそう言うように仕向けたんだよ。みんなの前でな。」
「そうか・・・・俺、だまされたのか。」
「うーむ、そうだな。しかし貴様の師匠という人は、本当に経文を守るために命を捨てたのだから、その経文がないのは困ることなんだろうな。問題は、師匠以外の人間たちだ。彼らは、おびえるだけで、何もしようとしないように俺には見える。」
「・・・・・・。」
「まあこれは部外者の俺の意見だ。何にせよ、そういう無責任な連中に囲まれて育ったお前は、不幸だったと俺は思う。お前にその光明という師匠がついていたのは、幸いだった。その背中の『魔天経文』は使えないのか?」
「え?」
「さっき何か呪文を唱えると、マジックが起きると言ったな。見せてみてくれないか。」
三蔵はためらった。その呪文は、妖怪にしか使ってはならないと教えられていたのだ。
その頃の三蔵は、本当にまだ寺で習ったことを純真に信じていた。
三蔵はしかし、意を決して唱えてみた。それまでだまされていたとなると、気が気ではないからだ。
「――魔戒天浄!」
しばらく沈黙があった。ゼロは膝をたたいて笑い出した。何も起こらなかった。三蔵は真っ赤になってつぶやいた。
「それは――きっと、あんたが妖怪じゃないから・・・・。」
ゼロは手をあげて言った。
「わかったわかった、お前を追い詰めるのはやめよう。その経文は偽物じゃない。きっと俺が妖怪じゃないからだ?」
「そっ、そうだ。」
「うん。それとも、お前の法力が足らないせいかも知れないぞ?私の国の魔法使いの間では、よくある話だ。もっと鍛錬すれば、使えるようになるかも知れないぞ。」
「そうかな。」
「ああ、きっとそうだ。旅を続けるんだな。たとえ理不尽なものにしても、おまえはおまえの道を自分で切り開くんだ。」
「うん・・・・・。」
三蔵は手に持ったカップをじっと見つめた。手の中のカップは暖かかった。人のぬくもりがこんなに恋しいと思ったことはなかった。三蔵は言った。
「あんたはなんでこのあたりを旅しているんだ?西から来たと言っていたが、天竺よりも西なのか?」
ゼロは笑った。
「そうだ、天竺よりもずっとずっと先だ。その先にはおまえの思いも寄らない場所があるんだ。ここは桃源郷と呼ばれているそうだが、西から流れた品物がずいぶんあるな。おまえのその銃もそうだ。」
ゼロはそう言うと、遠い目をして言った。
「私もそうだ。西から流れてきたんだ。私は故郷の村にいたんだが、そこで妻と息子を―――ちょうど三蔵、おまえぐらいの年齢だった。殺されたんだよ。妖怪の男にな。男の名はマンダリン・Mと言う。腕に十字架と蛇の刺青をしているんだ。逃げていく時に見たんだ。」
「奥さん・・・いたのか。」
「ああ。マンダリンにレイプされた。」
「――!」
「だからだ―――さっきみたいな事態が俺には我慢がならないのさ。さあ俺の話は終わりだ。俺はマンダリンを追ってここまで来たんだ。」
三蔵の目が光った。三蔵は言った。
「そいつ・・・・殺すのか。」
「ああ。妻と子供の仇だからな。私は、人道的な男ではないんだ。奴は妻の腹を刃物で引き裂いた。妊娠していたんだぞ。そんな男を許せると思うか?おまえの信じる仏道では許すように教えるのだろうが―――。」
三蔵はかぶりを振ってゼロに答えた。
「俺・・・・あんたの思っているような人間じゃないぜ。さっきは驚いたけど、これからはあんたみたいに、殺すよ。悪い奴は全部。そうする。そうしなけりゃ生きていけない。」
「ボーイ。」
「ありがとう、あんたに会えてよかった。俺はこれから銃を練習してうまくなる。そして、悪い奴らをやっつけるんだ。俺の生きていく先で邪魔になる奴を―――。」
三蔵は微笑んだ。ゼロはその顔をじっと見つめた。
「強くなったな、ボーイ。」
ゼロは思った。
―――はじめて会った時から、その瞳は純粋に輝いていた。修羅か羅刹のようではあったが、彼の魂は純粋なのだ。―――願わくば、清くあれ―――あの泥に咲く薄桃色の蓮の花のように・・・・。
ゼロはそう思ったが、口に出しては言わなかった。
その代わり、ゼロはこう言った。
「おまえは三蔵法師だが、この世に降りた不動明王かも知れないな。」
「不動明王?」
「そうだ。暴悪な神だ。悪者をこらしめる正義の神だよ。知らないのか?」
「俺・・・・そんなに強くないよ・・・。」
食事を終えた三蔵はうとうとと寝入った。ゼロは三蔵に毛布をかけてやった。
次の日、谷間を降りた砂漠への入り口が、二人の別れ道だった。
三蔵はゼロに問うた。
「ここを、渡るのか?」
「ああ。おまえは町への道を下るといい。砂漠はまだ早い。足がないとどうにもならん。」
ゼロは馬上からそう言うと、手を振った。
「ボーイ、いつかまた会おう。天がそう望んだならな。神は遍在している。仏もまた、そうだ。そして私の心もまたそうだ。いつもおまえとともにある。」
「偏在?」
「空気のように、見えなくとも存在しているということだ、ボーイ。では、さらばだ。」
ゼロは馬を駆った。
そうして砂漠を歩いていくのを、三蔵はゼロの姿が点になるまで、じっとそこで立って見送った。
不意に涙が出た。三蔵は両手を口にあてた。どうして自分がそんなことをするのかわからなかったが、それは衝動的に三蔵を襲った感情だった。
「ゼロ!俺はあんたのことが好きだ!」
三蔵はゼロに向かって声の限りに叫んだ。この声は聞こえない。もうおそらくは二度とは会えない。会うこともない・・・。
自分を死の淵から救ってくれた人―――そして、風のように去っていった人・・・・。ゼロ、あんたのことは忘れない。たった一晩限りだったけど、あんたと過ごした夜のことは俺は二度と―――。
それが玄奘三蔵の、子供時代との別れの瞬間であった。