「月の桂」
第一章 偏在 (三)
それから数日たった日のことだ。
「ねぇ、ねぇ、君、神様っていると思う?」
三蔵がまた寺の本堂の中を掃除している時に、あの銀髪の子供は不意に現れた。
「邪魔だな。」
「だからさあ、君たちの信じている仏様じゃないんだ。神様はもっと偉いんだよ。神様だよ。君は神様の存在を信じないの?君の今いるこの寺って、本当に正しいところだと君は思う?」
「うるさいな。」
雑巾で床を拭いている時に、そいつは雑巾を使う先に現れた。
三蔵が拭く途中の床の上を、ぺたぺたとはだしでそいつは歩いた。三蔵はそいつに尋ねた。
「おまえ、なんて名前なんだ。」
「―――だよ。」
三蔵の耳に確かにその名前は届いたはずなのだが、「胸糞悪いことは忘れるようにしている」と後年言ったとおり、三蔵の記憶の中ではその名前はぬぐいさられている。
代わりに三蔵は心の中でそいつの名前を名づけた―――『カミサマ。』
そいつが「神様」と言ったときの言葉の調子を三蔵は忘れることができない。
くぐもったように、鼻についたような上ずった調子で―――貴族生まれのように気取った風にそいつは発音したのだった。
そいつはさらに言い募った。
「だってねぇ、神様はこの世界の万物をお作りになったんだよ。君の師匠の人が言っている『転生論』では、そのことを看破できないんだ。だって、『転生論』が言うには神様がお作りになった世界が、ぐるぐる魂をやり取りしているってだけだろ?君のお師匠様はきっと馬鹿だね。」
「馬鹿だと。」
「だってそうじゃないか。僕の先生の烏哭三蔵法師様は神様みたいに偉いから、そんなことちゃあんとわかっていて、自分は神様の次の椅子に座るんだ、って言っているんだ。たとえばこの世界にはたくさん妖怪がいるけど、そいつらは神様が間違ってお作りになったんだから、神様の間違いを正すんだって言っていてさ。君のお師匠様は、それに反対しているんだって。臆病だから。」
そいつはかかと歩きで後ろ手で三蔵に言った。
三蔵はそれまで雑巾で床を磨いていたが、突然雑巾を床に投げつけた。三蔵はそいつの顔をにらみつけて言った。
「・・・・おい、お前。人にはそれぞれ縄張りがあるんだ。おまえの立っている場所は、俺の今掃除する縄張りだ。」
「え?」
「邪魔なんだよ。そこ、どけっつってんだ!」
「えっ、いたぁい。」
三蔵が突き飛ばすと、そいつは女みたいな悲鳴を上げた。
「そんなことしたら、僕の先生に言いつけてやるから。」
「うるさい。おまえの言うことなんか・・・・。」
「あっ、君のお師匠を馬鹿って言ったの怒ったんだ?君、あのお師匠様のこと好きなんだね。あんなおじいさんが。」
「俺のお師匠様は・・・。」
おまえなんかにはわからない、優しい人だ。三蔵はそう思ったが、口にすることはできなかった。
恥ずかしかったのだ。
三蔵はだから、目の前のそいつが、手放しで烏哭という男を誉めるのが我慢できなかったのだった。
と、その時三蔵の背中で声がした。
「おいおい、三蔵、そのへんにしてやれ。そいつはお前とは違うんだ。」
朱泱だった。朱泱は棒術などの師範代で、三蔵の稽古の先生でもある。
朱泱はそいつに言った。
「ぼっちゃん、こいつは癇癪持ちだから、あんまりからかわんでくれんかね。こいつは光明三蔵法師のこと、心底尊敬しているんだ。」
「しゅっ、朱泱っ。」
「はは、何あわててんだ、江流?いつか言ったろ。俺はお師匠様の言うことだけは聞くってな。」
三蔵は真っ赤になって怒った。
「そっ、それは・・・・。」
「あ?言っちゃならねかったか?ごめんごめん。しかしなあ・・・・。おまえも素直じゃない。」
と朱泱がとりなすように三蔵に言いかけた時、そいつはだっ、と走って逃げ出した。
「なんだ、逃げ足の早いヤツだな。」
朱泱は言った。そいつは後も見なかった。
と、その首に数珠をかけているのを、その時三蔵はやっと気づいた。黒檀の小さな珠の数珠だった。
――俺にもあんな数珠があったな。
三蔵はその時、ふと思い出した。
――あいつも、あんな事言っているけど、やっぱり坊主になるつもりなんだ・・・・。
俺は?と三蔵は思った。俺も坊主になりたくはないけど・・・・・あの優しいお師匠様を裏切れない。
だって――お師匠様は俺の命の恩人なんだ。だって俺の持っている数珠は――――。
三蔵はふところをまさぐった。
その、「誰か知らない親かも知れない人からの、形見の数珠」は小さい袋の中に入れて、肌身離さずいつも持ち歩いていた。その珠はすべすべしていて、触ると手触りがよく、三蔵は懐かしい気持ちにいつもなったのだった。
あいつとおんなじような、黒檀の小さな数珠―――。
どんな人だったんだろう、これを俺の乗る川の篭に入れた人は―――。
三蔵の心の中で、その時寂寞な想いが渦巻いた。
――どうして俺を捨てたの?捨てるのならどうして数珠を、篭の中に入れたの?
三蔵はじっと数珠を見ていたが、やがて決意したように朱泱に言った。
「やる。」
不意に三蔵はそれを、朱泱に向かって突き出した。
朱泱は三蔵の突き出された腕を、面食らった顔で眺めた。
「何を?この数珠をか?」
朱泱は驚いて、三蔵の顔を見た。紫の瞳が、何時になく激しい光を宿している。三蔵は言った。
「・・・・俺、人に物をあげたりしたことないんだ。あんたにそれ、やるよ。俺をいつも教えてくれたろ?」
「なんでだ。」
何故―――三蔵は何かを断ち切りたかったのだった。
――俺はもう子供じゃない。お師匠様に助けられてばかりじゃない。一人でも生きていける。あんなヤツとは違うんだ。
三蔵はその時そう思ったのだった。
「だから、その恩にあんたにそれやるよ。超レアだぜ。」
「お、おい。いいのか、これ。大事にしてたんじゃないのか?」
朱泱がとまどうのを、無理やり数珠を押し付けると、三蔵は本堂から駆け出した。
三蔵の中で、いろんな想いが駆け巡った。
――泣くもんか。泣く・・・・・・・・もんか・・・・・!
庭の端まで駆けて行って、三蔵は声を殺して泣いた。
なんで朱泱に渡してしまったのか、自分でもわからなかった。
でも、これで自分は何かと別れを告げたのだと思った。
三蔵の師匠の光明三蔵法師が、妖怪から三蔵をかばって絶命したのはその夜だった。
「お師匠様!」
血と叫び声だけしか、三蔵は覚えていない。
ただ、光明三蔵法師が自分をかばって死んだということだけは三蔵にはわかった。
そして―――妖怪が額につけた傷が発熱し、三蔵はその日から三日、生死の淵をさまよった。
――お師匠様・・・お師匠様・・・・・。
暗闇でうなされながら、三蔵は師が指先から紙飛行機を飛ばす夢をうつらうつら見た。
――私にはこんなことしかできないから。
夢の中で光明は、三蔵に穏やかに微笑んで言った。
その指先から放たれた緋色の紙細工は、紺碧の空に何処までも吸い込まれて行った。
三蔵は、わけもなく悲しくなった。
自分の師匠も、何もかもが自分を置いて飛び去っていくようだった。
――お師匠様、待ってください。俺を、置いていかないで・・・・いかないでください・・・。お師匠様・・・・・!
だから、目が覚めておのれの額にその刻印が現れているのを見た時、三蔵は大きな衝撃を受けた。
――なんで俺が・・・。
鏡に映った三蔵の額には、「三蔵法師」の正当な継承者であるチャクラの赤い印がはっきりと刻印されていた。
その印が現れた以上、三蔵はもう「三蔵法師」としての道を歩む以外許されないことになっていた。
師匠を思って泣くことももう許されなかった。
三蔵は光明を継ぐ者であり、魔天経文と聖天経文の正当な後継者である、と三仏神の命により寺の高僧たちから告げられた。
三蔵は居並ぶ僧侶たちの前で言った。
「ならば、お師匠様の仇を俺に討たせてください。そして、野党の妖怪に奪われた聖天経文を取り返しに行きましょう。」と―――。
そして――「カミサマ」とその夜姿を消した烏哭三蔵法師の額には、ついにそのチャクラは現れることはなかったのであった。烏哭はそれでも、無天経文の継承者で「三蔵法師」を名乗っていた。
すべては彼の実力であり、彼の唱える『唯識論』を、論破できる人間が金山寺にはおろか、この三千世界中を探しても見つからなかったからなのであった・・・・。
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