「月の桂」
第一章 偏在 (二)
三蔵は夢を見ていた。
さらさら・・・・さらさら・・・・と西から流れるような風が吹いていた。
手に持つ箒に、赤い紅葉した落ち葉の群れが当たっては舞い散った。
風は幽冥の方角から吹いてきて、この金山寺の立つ丘の上に吹き付けてくるのだった。
毎年毎年・・・・その砂漠から吹く風が頬を切るようになると、冬の訪れはもう間近だった。
三蔵は風の行方を思う。
何もかもが、無限。西には果てのない砂漠が広がっているのだという。
三蔵は顔をあげた。
幼い頃の自分だ―――まだ江流と呼ばれていた頃の、自分。
額には三蔵法師の継承者の印である、チャクラはまだない。
この寺では、自分は「もらわれ子」の立場であった。
ただ、自分の優しい師である光明三蔵法師だけが、陽になり陰になり自分をかばってくれる。
それ以外の僧兵などの荒くれ僧たちにとっては、自分は「河流れの江流」でしかなかった。
従って江流は寺の下働きとして、今も山門の境内の道を箒で掃いていた。
江流は本当に河でおぼれていたのを、光明三蔵に助けられたと言う。
自分では覚えていない。
なぜおぼれていたのかも、わからない。
記憶はない。
ただ、無限に広がる蒼い薄闇の記憶と、自分をつかむ腕の記憶だけがかすかにあった。
誰が教えるまでもなく、三蔵は自分が「捨て子」であることを、わかっていた。
金色の髪をした、紫の瞳を持つ自分が、この寺だけではなく、この大陸で異端と呼ばれる存在であることを、三蔵はうすうす感づいていた。
町に出れば、自分を見る人々の目が、異端なものを見る目つきであるのを感じ取っていた。
だが、三蔵の師である光明三蔵の髪も金色だった。
さらに、光明はそれを、もうずいぶん歳を取っているのに、女のように三つ編みに編んだり、結い上げてみたりする。
光明はある時、三蔵に言ったことがある。
「あなたは自分のその姿が好きですか?」
三蔵は少し考えてから、あまり好きではない、と答えた。
自分は目も髪も真っ黒なこの国では、目立ちすぎるし、また同胞はいないも同然であった。
光明は嘆息してこう言った。
「あなたの髪と私の髪、少し似てますね。」
三蔵が無言でうなずくと、光明はにこやかに言った。
「私たちはきっと、北冥の地から来たのですよ。」
「ホクメイの地・・・・・?」
「そう、北の冥府の地です。北はこの中華では蛮夷の住む方角ですが、道教の荘子にこんな言葉があります。『北冥に魚あり。其の名を艮と為す。艮の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。怒して飛べば、其の翼は垂天の雲の如し。この鳥や、海のうごくとき即ちまさに南冥にうつらんとす。南冥とは天地なり。』―――あなたも私も、もとは北の大地に住む魚だったのです。それが、大鳥になって、南のこの長安の都にやって来たということなのですよ。」
「魚・・・・・。」
「そう、だからあなたは「河流れの江流」というのですよ。きっと揚子江のような大河を流れて来たんでしょうね。艮の大きさは幾千里もあるそうですから。」
「お師匠様、俺はやっぱり魚ではありません。」
「ああ、あなたはこの呼び名は嫌いなのですね。」
光明はここで、小さな三蔵の前にしゃがみこんで言った。
「忘れてはなりません。あなたは前世では魚であったり、鳥であったかも知れません。この世にある命は輪廻転生を繰り返し、流転しているのです。ですから、命というものはすべてつながっているし、永遠になくならないものなのです。」
「永遠になくならない・・・・?」
「そうですよ。あなたは食べ物を食べたりして、生きていくうえで殺傷しますね。でもその命はまた、この世によみがえってくるのです。必ず。仏がそうしているのです。この寺にいる私たちは、それを守って生きているのですよ。それが仏道です。」
「・・・・・・・・。」
「私はあなたにも将来それを守れとは言いません。だけど、忘れないでほしい。あなたはこれからきっと、大きな人生を歩むと思いますからね。」
三蔵はかすかにうなずいた。
光明の言葉は、好きだった。
岩に清水が染み入るように、三蔵の心の奥深いところにその言葉は届くような気がするのだった。
この人はきっと、俺を裏切らない。
そうあってほしい。
それが幼い三蔵の、願いらしい願いであった。
と、その時二人の後ろに立つ影があった。
黒い髪の眼鏡をかけた僧侶だった。
「転生論は、子供にはわかりませんよ。」
三蔵がむっ、として声のした方角を見ると、一人の子供がその影に隠れて立っていた。
光明が不審げな声をかけた。
「烏哭―――その子供は?」
「町で拾いました。あなたのマネをしてみたんですよ。金髪でかわいい・・・・賢そうだしね。」
クスクスと、からかって笑うような声だった。
その子供も確かに三蔵と年恰好が同じぐらいだった。
子供はウサギのぬいぐるみを手に持っていた。
三蔵は自分よりもその子供のほうが、きれいに思えた。
自分の髪は黄色い金髪だが、その子供は銀髪みたいな金色をしていた。
薄い白金の色が、陽にすけて輝いていた。
顔の色もぬけるように白い。
と、子供がぬいぐるみを三蔵のほうに差し出した。
「これあげる。」
三蔵は、なんとなく受け取ってしまった。
子供がニッと笑った気がした。
と、ぬいぐるみの首がもげて地面に落ちた。三蔵はギョッ、とした。
「――!」
三蔵は嫌なものを見た気がした。
と、横に立つ黒髪の僧侶が眼鏡を手でおさえて言った。
「おびえているんだね。キミにはまだ、早いね。」
三蔵は、目に見えない黒い悪意をその僧侶に感じた。
光明が叱咤するように言った。
「烏哭!」
烏哭は言った。
「やれやれ、先が思いやられますね。ずいぶんと過保護に育てられたようだ・・・・。それでは継承のなんとやらも、受け継ぐことが果たしてできるのか・・・・。」
「あなたは、無天経文の継承者ですね。だったら・・・。」
光明の言葉をさえぎるように烏哭は言った。
「邪魔者は去りますよ。ぼうず、行こう。このおじさんは、口うるさいからね。」
烏哭が子供を連れて立ち去るとき、その名の如く空に黒い烏の群れがギャアギャアと騒いで飛んでいった。
「お師匠様、あの人は・・・・。」
三蔵の言葉に、光明は一言だけ答えた。
「あなたはまだ、知らなくていいのです。」
こういう時は、光明は貝を閉ざしたように何も言わない。
だがそれは、光明が自分を思ってのことだと、三蔵にはわかっている。
「おいでなさい。夜の勤行の支度を。」
三蔵は光明について、寺の中に戻っていった。
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