蒼紫は雪原の先を見た。
朱膳が剣先に右手を添えて、高くかかげて構えていた。
すでに体力は番舎の牢獄でのリンチによって消耗していた。
片目の男、油壷蝋凱は退けたものの、この者を倒さねば先には進めない。
この先へは―――――巴のいる京へは・・・・しかしそこにも飛天御剣流の使い手の緋村抜刀斎がいる。巴は闇の武の手の者によって、監視されている。さらには翁の京都御庭番衆が。
己れの目の前に何重もの障壁が立ちふさがっているのが蒼紫には見えた。
そして先代御頭も・・・。
蒼紫の脳裏に先代の声が響いた。
―――――われら御庭番衆に許されるのは、小太刀二刀流だ。蒼紫、これは一子相伝であり、おまえは正統な後継者ではないが、このわしが選んだのだ。わしの流儀に従ってもらおう・・・・・。
しかし蒼紫の手に今握られているのは、普通の大刀である。
番舎の中にころがっていたのは、その刀しかなかった。
朱膳が笑った。
「女のところへ行きたいか。」
「・・・・・・。」
「あれからもう三ヶ月が過ぎている。女も長州の者に用間法の忍をはじめていることだろう。貴様はただの教育係だったのだ。女のほうもそれを理解した。理解したからこそ、京にのぼった。」
「・・・・・・・。」
「あの女も自分のよって立つ正しい道を、夫の仇討ちということに理解したのだ。貴様の出番は何処にももうないのだ。四乃森蒼紫。上忍の一人・笹葉霞をつぶした責任を、その背に負ってもらうぞ。あれは使える女だったのに・・・貴様が殺した。」
蒼紫は朱膳の言葉に、眉間にぴくっと憤りを走らせた。彼は叫んだ。
「葉霞のような女こそ、御庭番衆にとっては癌であった!」
「そうかな?女忍のあれだけの統率力を、ただ一人の女がなしとげた・・・。それは褒められることであって、けなされるようなことでは決してない。貴様に今回ついて来れた人間はいくらだ?たったの四人ではないか。それが葉霞と貴様との決定的な違いなのだ。」
「会津藩と水戸藩の唱える攘夷に煽動されて下忍たちが集まっただけだ。」
「ほう。その程度のことはわかっていたようだな。まあいい。貴様を御頭のお飾りにして、葉霞と二人して御庭番衆に背後から君臨するつもりであったが、それも葉霞がいない以上、夢となった。あとは貴様を倒して老人を毒で始末し、御庭番衆を手にして幕府を陰から私が支えてやる。そのほうがよかったかも知れぬよ、四乃森。女というものは信用がならぬものだからな。貴様を捨てた雪代巴のように――――――――。」
朱膳の目が笑っていた。
蒼紫の目が朱膳の言葉にきつく細まった。切れた口の奥から、蒼紫はふりしぼるように叫んだ。
「巴を侮辱することは許さん―――――!」
その言葉が切れた瞬間、朱膳は前に駆け出した。
蒼紫との激しい斬り合いになった。
蒼紫の背後へ背後へと、朱膳の剣は回り込んだ。
蒼紫はそれをからくも受け止めている。
ざざっ、と雪原の端から林の前へ二人は移動した。
朱膳は再度笑った。
「すべて手は尽くした・・・貴様に残っているのは、そのなまくら刀ひとつだけだ・・・小太刀を奪われた貴様には、手足というものが何もない。覚悟せよ四乃森。我が秘剣・の剣を頭の先から受けて死ぬがよい。」
蒼紫はかすみはじめた視界の先に目をこらした。
朱膳が刀を頭上斜めに構えながら、ゆっくりと近づいてきていた。
朱膳は勝利を確信していた。
――――これだけ弱っている男なのだから、技を仕掛けるのは簡単だ。
しかも帯びている刀は、こしらえも重い大刀である。立会いもここに来てから、まだ一度もしていない。
――――私のこの一撃で、歴史は変わるかも知れない。
と、蒼紫が両手で握っていた刀から片手を少し離した。
―――なんだあの男?片手握りに変えて・・・とうとう観念したのか。
朱膳は低くつぶやいた。
「馬鹿めが。」
朱膳は気合いをこめて、剣を繰り出した。
突堤の波をも斬るという、覇浪波の剣。上段の一番上からの構えだ。
「死ね―――――!!!!」
と、蒼紫の右手が鋭く宙を切った。
―――――なんだっ?!
その瞬間、酒禍神朱膳は恐怖した。
苦無の束が自分目がけて頭上から襲ってきた。
朱膳が苦無に気を取られた一瞬に、蒼紫の体が沈みこんでいた。蒼紫は片手の握りを逆手にしていたが、すばやく両手になっていた。その体勢のまま、朱膳に向かって蒼紫の体は沈黙のまま直進した。

――――ぐぉっ!!!!!

朱膳は声もなかった。
胸から腹にかけて、すさまじい苦痛の連続が体を貫いた。腹を十字かそれ以上の印で、縦横無尽に切り裂かれていた。
朱膳は激しく身を震わした。
「い・・・・いまの・・・・わ・・・・・。」
蒼紫は深く響く声で答えた。
「――――――。」
「き・・・へき・・・・?」
「二十八宿の星の宿る先のうち、箕壁翼軫の四つの星に月が宿る時には必ず風が吹く――――孫子の兵法のひとつだ。今貴様に投げた俺の苦無の数は四本だった。」
蒼紫の言葉が終るまでもなく、朱膳の体は地に倒れ伏していた。
蒼紫は激しく肩で息をついていた。
もう限界に近かった。と、その時背後に蒼紫は気配を感じた。
「―――蛇剣じゃな。」
蒼紫は声に振り向いた。
あの老人が見下ろす崖の上に立っていた。先代御頭であった。般若たちを従えていた。
先代は言った。
「小太刀でなさねば意味はない。江戸に帰るのじゃ蒼紫。京に行くことは許されぬぞ。その程度の剣、わしが破れぬと思うではない。」
「御頭―――――。」
「先代とわしのことは呼べ。行くぞ。」
蒼紫の心はその瞬間激した。彼は思わず叫んでいた。
「孫子の兵法は、戦国の世では武士のならいでした。小太刀二刀流の開祖は『五輪書』の宮本武蔵であり、それはたとえ幕府が認めるものであったとしても――――。」
先代は蒼紫の言葉を頭ごなしに打ち消した。
「くどい!!!!中国渡りの剣法を、さかしらに使えるようになったとうぬぼれるな!!!」
蒼紫の体を、先代の言葉が打ちのめした。
彼はその場で泣きたかった。
――――巴・・・巴・・・・巴・・・・・!!!
蒼紫の心を深い絶望感がとらえた。
古い因習にとらわれた御庭番衆の中の、自分は一員なのだ。
京に上った最愛の巴が、戦国わたりの飛天御剣流に斬られる―――それを手をこまねいて自分は見ているしかないのだ。

――――あなたは私を不幸にした・・・・・それならば、もっと不幸にすればいいのです。
――――あなたが幸福になるためなら、私は行きます。

蒼紫の暗い心の中を、薄い影のような巴の寂しい白い横顔がすっ、と流れて消えていった。
あの横顔を愛しいと思った。母に似ていると思った。守ってやりたかった。

――――と、も、え・・・・・。

巴の巡礼装束の白い後姿が杖をついて遠ざかっていく――――緑の中仙道を。自分がかいま見ることのできなかったその光景が、蒼紫の胸の中にその時いっぱいに広がった。
彼はその光景をせいいっぱい美化した。
巴の頭上を小鳥たちがさえずり、巴はちょっと頭をめぐらせてあたりを見回す―――――透明な日の光が背の高い木立の間から射している。風が少しだけ吹く。その穏やかな光景に巴は安堵する―――――そのまま、眠るような幸福なまま・・・・。



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