第一章 爪牙
(四)
「こっちじゃ。入りなさい。」
寂庵は巴を伴って、しばらく町中を歩いたのち、町外れの方庵に巴を案内した。
そこは竹藪で囲まれた平屋建ての建物で、戸を開けるとひなびた空気の香りがした。
巴は暗がりに目が慣れてくると、部屋中にある珍奇な品物の数々に目を見張った。
そこに置いてあるのは地球儀であったり、ビーカーやフラスコのたぐいであったり、珍しい動物の剥製であったり・・・・とにかく巴には見たことのないものばかりだ。ただ、それが洋学の品であることは、巴にはうっすらとわかった。
巴は寂庵に尋ねた。
「御仁は、蘭学に造詣のあるお方なのですか?」
寂庵は鼻の上に、丸眼鏡をかけていた。その眼鏡を指先でずりあげながら、やや得意げに寂庵は言った。
「うんむ?わしか。わしは・・・そうじゃな。和漢蘭洋なんでもやるわい。興味があるものは古今東西、限りはないわい。幕府はこんなものを研究しているから、わしのことは左遷同様じゃがな。御頭からの特別な許しがなければ、この研究も続けられんかったよ。」
「幕府方の方?」
「うんむ・・・・・そうじゃな。わしはその・・・・確かに幕府方の者なんじゃが、表の世界ではいないことになっとる者なんじゃよ。あんたのことは、その筋の人間から聞いて、頼まれてな。」
「なんでしょうか?」
巴は寂庵にすすめられた座布団に座った。
部屋中に集められたがらくたのような品物の数々が、方庵に座る二人を取り囲んでいた。
寂庵は「失礼」と言うと、袂からキセルを取り出した。
キセルを口にくわえると、おもむろに寂庵は言った。
「あんた、高飛びしなさい。」
「えっ?」
「そうじゃなあ。ヤツらの手から逃れるためには、東北に逃げたほうがいいか。芭蕉のたどった道じゃよ、これじゃな。」
「あの・・・・・どうして・・・・・私がそのような・・・・。」
巴にはさっぱりわけがわからなかった。
「なぜ?あんたは奉行所の命令で、こっそり探索方の仕事をやっていたと思っとるんじゃろう?違うかね。」
寂庵はこう言うと、キセルに火をつけて深く吸った。
「はい。なぜその事を知っていらっしゃるんでしょう。助けていただいて、こんなことを申し上げるのは何ですが、不気味なんです。」
「わしのことも信用できないと、こう言われるのじゃな。いや、無理もない。」
その時、戸口が開いて、一人の蓑傘をかぶった少年が入ってきた。
少年の顔は傘に隠れて見えず、また部屋に入ってきても傘を取ろうとしなかった。
少年は言った。
「じい、頼まれて来たよ。その人かい?」
「うんむ。ご苦労じゃな、猩々。若頭は何か言っとったか?」
「何も。俺たち気を回しすぎかな?」
「そんなことはない。この人を葉霞や朱膳の手に渡してはならん。わしは、若頭が修羅の道に陥るのを見るのはつらい。」
「そうだね・・・。」
巴は二人の会話に目を丸くして聞くしかなかった。
「あの・・・・・。」
おずおずと言い募る巴を見て、猩々と呼ばれた少年が泥だらけの顔で、にこ、と白い歯を見せて笑った。
巴は直感でわかった。
この少年は、「山の民」と町人に呼ばれている「山禍」の民だ。
このような者とつながりがあるということは・・・・と巴には、寂庵を用心する気持ちが働いた。
しかし猩々は呑気そうに巴の顔を眺めて言った。
「ふーん、この人かあ。若が好きになったというのは。近くで見るとやっぱり美人だ。」
寂庵があわてたように、猩々をたしなめた。
「これ、余計なことは言わんでもいい。だいいち好きかどうかもわからんのじゃ。」
「そーかな。御頭、じっと見てたけどなあ・・・。」
「それは何時じゃ。」
「えっ、何時だったかなあ。もうすごく前だよ。この人が、男と歩いていたとき。そんで俺ベシミと、あれヤバイんじゃねぇの、って言ってこそこそ話してたんだ。」
「それは何度もか。」
「えっ、二回ぐらいかなあ。俺が見たのは。そんでそれ、葉霞んとこの女忍者も見てたんだね。だからこの人ひっかけたらしいんだよ。」
「そうか。なるほどな。」
寂庵は溜め息をつくと、巴に向き直って言った。
「見ての通りじゃ。あんた、目をつけられとるよ。実はあんたの顔は江戸中の、その筋の者には知れ渡っているんじゃよ。だからじゃ・・・・これから奉行所に幽閉されている、あんたの弟をこの猩々が助け出すから、あんたは表に待っていて、弟と一緒に北に逃げるんじゃ。」
「なぜそんな。」
「なぜ?命をとられるからじゃよ。さっきみたいな連中が、あんたの周りにはこれからうようよ現れるじゃろう。まあ態よく言えばいがみ合いじゃな。しかし・・・・剣は『すぽうつ』ではないのだし・・・。あんたを『見た』って言うだけで、あんたを狙う女も女じゃなあ。」
「すぽうつ?」
「うむ。sportsじゃな。英語で、『運動』ってことなんじゃが。剣は確かに運動技なんじゃが・・・・。」
寂庵はこう肩を落として言うと、巴にふと横にあるホコリをかぶった地球儀を指差した。
「あんた、見てごらんなさい。この日本というのは、何処にあると思うかね?」
「それはなんですか?」
「地球儀じゃよ。この世界というのは、こんな大きな丸い球の上に乗っとる。日本というのはここじゃ。さらに、江戸はここ。」
巴は目を丸くした。寂庵が指差したのは、小さな半島の先であった。
寂庵はカラカラと地球儀をめぐらせて言った。
「こんな小さな世界で、剣がどうだとか、誰が一番強いとかで、いがみあっとる。バカげとるよ。あれにも小さい時には、わしはさんざん教えたんじゃがな。みんなパァになってしまった。さ、こんなことでぐずくずしておれん。あんた、先を急ぎなさい。ここは待ち合わせ場所に使っただけじゃ。猩々、いいな。ちゃんと弟君を救出するんじゃぞ。」
猩々は寂庵に首をすくめて答えた。
「わかってますって。おいら、三節コンの名手なんだぜ。」
「それはたのもしい限りじゃな。ではな。」
寂庵は巴をうながした。
巴は思った。
結局この人たちは、自分たちが何なのか、はっきりとは言ってはくれない。
ただ、自分の命が危ないとだけ言って、弟の縁と逃げるようにだけ先を急がせる。
このまま、流れるようについていって、本当に大丈夫なのだろうか―――と、巴が思った時だった。
「じじい、待ちな。その女は置いていってもらおう。」
戸口の向こうから冷たい女の声がして、次の瞬間手裏剣の矢雨が襲ってきた。
「なんだ、てめぇっ。」
猩々は手にした錫杖をすばやく回転させた。
キンッ、カンカンカンッ、と手裏剣が激しく音をたてて、立て続けにはね飛んだ。
「ふふん、小僧、やるじゃないか。ちょこまかと。」
黒装束で顔を隠したの忍びの女の者が数名、闇の道に立っていた。
どの者からも、尋常でない殺意がみなぎっているのがわかった。
巴は短剣を引き抜き、握りしめた。
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