第一章 爪牙

                                    (三)


巴はその茶店の座敷に通されると、すぐに三味線を弾くように言われた。
巴以外にも二人ほど、容貌の目立たない女がお囃子をたたいていた。
巴は集まっている男たちを眺めた。
いずれも浪士風の者ばかりだが、車座になって密談をしていて、酒を盛んに注ぎあっている。
その中の一人の男が、巴に目配せをした。
「おい。そこの女。三味線はもういい。こっちに来て酌をしろ。」
巴は動揺したが、すぐに面を伏せて、両脇の芸子に目礼をすると、銚子を手に取って男たちに酌をしだした。
男の中の一人が、自分の顔に目を注いでいるのがわかった。
男は言った。
「こうして近くで見ると、なかなかいい女じゃないか。名はなんという。」
「巴と申します。」
言ってから巴はドキリとした。
男が、巴の着物の袂から手を差し入れてきた。
巴はうつむいて、男の手をじっと我慢している。
と、横に座った男が言った。
「本間殿、その辺にしといたほうが。こいつは客をとる女じゃねぇ。」
「なんだ。俺のすることに水を差すのか。」
「いや・・・こいつはそんな、おとなしい玉じゃねぇですからね。」
と言うなり、いきなり巴の腕を取った。
男は飯塚だった。
飯塚は巴のあごを手でつかんで引き寄せて言った。
「あんたは雪代巴だろう。俺はあんたの旦那と会ったことがあるんだ。あんたはそれを、こそこそかぎまわっているらしいな。」
「な・・・・何をなさいます。」
「俺たちのする事を、幕府に言いつけるつもりなんだろ。そうはいかねぇぜ。」
巴は飯塚の手から逃れると、三味線を手に取った。
柄のところを巴は勢いよく引き抜いた。
短刀が現れた。
ひぃっ、と横に座った芸子たちが悲鳴をあげた。
巴は護身のために短刀を構えながら、きついまなざしで飯塚たちに言った。
「言いなさい。どうして清里に仕事を頼んだのですか。」
「どうして?そりゃ仕事の口があったからだろ。」
「何か裏があって仕事を持ってきた・・・奉行所の方々はそう申しておりました。あなた、私と奉行所へ行きなさい。」
「は?奉行所に行きなさい?こりゃまた俺に命令ですか。あんた、俺がアッサリそんなところへ行くと思ってんのか。」
巴は飯塚がスラリと腰の刀を抜くのを、肝が冷える思いで眺めていた。
――でも・・・・でも・・・でも・・・・・!
巴は震える手で刀を握り締めている。
ほかの男たちも、飯塚にならって刀に手をかけた。

と、その時。

ひょう、と何か鋲のようなものが空間に飛んだ。
男の一人の眉間にそれは当たった。
「うおっ。」
思わず男が前にのめり倒れこんだ。
「こっちだ。早く。」
窓の外から声がして、巴が逃げるように急かしていた。
巴は三味線を持ったまま、廊下から庭に駆け下りた。
そのままはだしのまま、外へと駆けた。
茶屋の裏門を出ると、人気のない小道の先に、一人の老人がちょうちんを持って立っているのが見えた。
丹前を着て、茶帽子のようなものをかぶっている。
「あ、あなたは。」
巴が息せき切って駆け寄ると、その老人は口からまた、何か鋭い音のするものを吹いた。
それは、巴を追ってくる男たちの目や鼻に次々と当たった。
飯塚が叫んだ。
「てめぇ、何しやがるっ。」
老人は言った。
「そこまでにしとくんだな。この女を追い詰めるのが、おまえさん方の役割じゃろう。わしは、女を助ける役割りじゃ。」
「聞いてないぞ・・・・。貴様、俺らの邪魔をしようって言うのか。」
「邪魔などはせんよ。これからも幕府の人間を京に送り込んでは、長州などの暗殺者に斬らせるんじゃな。それでおまえさん方の『おあし』が出ることについては、わしは何にも言わん。ただ、この女はここに置いておきなさい。これはおまえさん方が目をかけてはならん女じゃ。」
「じじい、指図をするなっ。」
飯塚は老人に斬り付けた。
だが、老人はポン、と月夜に飛んで、何か飯塚たちに向かってふわりと投げた。
「なっ、なんだこれは。」
飯塚は急に手足が自由にならず、闇の中でもがいた。
老人は得意そうに言った。
「ほほ、昔取った杵柄じゃ。それは拙僧の投げた霞網じゃ。それから抜け出るには、半刻ばかりの時間がいるわい。さ、あんたはわしと一緒に来なさい。いいな。」
老人の言葉に、巴は声もなくうなずいた。
この老人はどうやら、自分を殺すつもりはなさそうだ。
巴は老人に尋ねた。
「あなた様は一体・・・・・なんと申されるのですか。」
「わしか。わしは――)と申す。室町の世にいた、)というのを知っておるかね。わしもそのような、隠居した老人じゃよ。」
寂庵はそう言うと、巴を案内して歩き出した。
「拙僧の隠れ家に来なさい。なに、取って食いはせん。そんな事をすればあとが怖いわい。あんたには、怖ろしい者がすでについているでな。」
「おそろしい、もの、とは?」
「まだ知らないほうがいい。そうじゃ、とても怖ろしい・・・・・・が、美しいもの、じゃ。」
寂庵はそう言うと、月を眺めてほっ、と溜め息をついた。
それは巴以外の誰も気がつくことのない、深い溜め息であった。




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