第一章 爪牙

                                    (二)


話はそれより一ヶ月ほど前にさかのぼる。
雪代巴の婚約者・清里明良は、講武所を出た帰りに、一人の男に呼び止められた。
男とは何度か茶店で会って、京にのぼる相談をしていたのである。
清里はにっこり笑って男に言った。
「飯塚さん。決心はつきましたよ。京都見回り組。腕にそう覚えはありませんが、市内を巡回して回るだけなのでしょう。それで給金がこんなに入ると聞いたら、やはり、所帯を巴と持つ身の上、私も御家人勤めだけでは巴を幸せにはできないと思いまして。」
飯塚―――この男は、後に剣心のそばに現れて、長州方の間で暗躍した男だが、このときはまだ江戸にいたのであった。
飯塚が清里の仕事を斡旋したのである。
飯塚は、この頃は江戸で京都見回り組の人員を募集しているのを、手伝っていたのである。
飯塚は清里の肩を抱くようにして、近寄ると声を潜めて言った。
「兄さん、そいつは結構な話だが、用心してかからねぇと。巴って女・・・・・おまえさんの恋女房だろ?」
飯塚の言葉に、清里はのぼせたように頬を赤らめた。
純情な男なのである。
「まだ・・・・女房と呼ぶのではありませんが・・・まだ、婚約者ですから、私は。」
飯塚の目が光った。
「馬鹿言っちゃいけねぇ。京都にはどんな送り狼がいるかわからねぇんだぜ。その前にしっかりと、こう、抱いてやってからでねぇと。」
「そ、そんな、私は・・・・巴とは・・・・。」
「おまえさん、京都で死ぬかも知れないんだぜ。」
飯塚の言葉に、清里の声が裏返った。
「わ、私が死ぬ?そんな、そんなはずはないでしょう?そんな危険な任務ではないと―――。」
飯塚がなだめるように言った。
「そうそう。そうだった、そうだった。つい言葉がすべっちまった・・・・・。あやまるぜ。ただ、女を江戸に残しておくんなら、どんな悪い虫がつくかわからねぇ。やっちまったほうが賢明かなあ、って俺は思うのよ。ま、その道の先輩としてだな。」
「・・・・・・・。」
「それにそのほうがおまえさん、職務に専念できるんじゃねぇのかな、と俺は思うのよ。江戸に残してきた女のことが気がかりじゃ、剣先もにぶる、ってもんだな。腕に自信がないならなおさらのこった。」
清里は飯塚の言葉を聞いて、しばらく考えこんでいたが、やがて決心したように言った。
「わかりました。だ、抱けばいいんですね。しかし、巴が私を許してくれるだろうか。」
清里の言葉に、飯塚はからからと笑った。
「何緊張してんだ。てめぇの女房になる女だろ?それが早いか遅いかの違いだけじゃねぇか。ま、肩の力を抜いてがんばりな。それじゃ俺はこれでな。あばよ。」


その清里が京で死んで、巴は奉行所の入り口に立っていた。
清里との一夜を巴は思い出す。
―――おやめください、清里さま。
―――いいじゃないか、巴。京に行くんだから、少しぐらい。悪いようにはしない。
―――清里さまが、そのようなことを、私になさるとは―――ああっ。
清里に無理やり脱がされて、強引に押し切られた。
それでも私は、清里が好きだと思う―――思わないといけない。
そうでないと、死んでいったあの人があんまりにもかわいそうだ・・・・・。
巴はそのことを思うと、心がわななく。
巴は評定の間に座った。
清里の死についての取調べである。
奉行は巴の前に座り、畳に扇子をつくと、重々しい声でこう切り出した。
「そのほう、清里明良に京都見回り組を斡旋した男を知っているか。」
巴は小さくかぶりを振った。
「いえ・・・・存じません。京にのぼることは、清里が一人で決めました。わたくしは何も。」
「そうか。」
奉行はそう言うと、人を呼ぶように言い、巴に言った。
「そのほうは聞くところによれば、武芸諸般にも武士の娘としてのたしなみを備え、音曲にもたけておると聞く。市井に埋もれるには全く惜しい人材である。ひとつ、武士としてその類まれなる資質を幕府に役立ててもらいたい。」
巴はあっけにとられた。
話が清里のこととつながっていない。
「私に何か・・・・せよと仰せでございますか。」
「その通りである。実は、京都見回り組に募集した隊士の多くが、京都で消息を絶っている。幕府の人員が、無駄に浪費されておるのだ。まことに嘆かわしい事態であると言わねばなるまい。次々と隊士補充に応募した者が死んでいくのだからな。」
「それは・・・・・京都に攘夷派がいるからでござりましょう。私は、そんな恐ろしい者たちとは。」
奉行は巴の言葉に含み笑いをもらした。
「そうではない。まず、その方には、京都見回り組を斡旋した者の名前をつかんでほしいのだ。そのためには、浪士らが出入りしている茶店などを回ってほしいのだ。そちにこれを与える。」
武士の一人が入ってくると、巴にひとつの三味線を押し付けた。
奉行は言った。
「柄のところを抜いてみよ。短剣が入っている。」
巴の顔が真っ青に変わった。
「いっ、いやでございます。」
奉行はなめるように巴の顔を見た。
「ほほう、いやと申すか・・・・・拒否は許されぬぞ。そちの弟・雪代縁の命は、本日より奉行所が預かることにする。」
巴の目が驚愕に見開かれた。
「えっ。」
「だからこれは、そういうことだ。これにて重畳。」
巴はその場で崩れるように倒れた。
―――清里は・・・・・清里は・・・・私を・・・・・とんでもないことに・・・・。
いえ・・・・・そう思ってはいけない・・・・・清里さまは、私のために京都で死んだのだから・・・・・・。

巴はまた、吉原の一角に鳥追い女の姿で立っている。
通りは酔客や芸者の女たちでごったがえしている。
白い着物を着て、ひっそりと立つ巴の姿に目をとめる者は誰もいなかった。
その後に、今ひとり、祭姿で夜店のひょっとこの面をかぶった男が立った。
男は低い声で巴に言った。
「三軒先の茶店に入っている。早く行け。」
「はい。」
巴は小さくうなずくと、三味線を抱えて必死の思いで前に歩き出した。

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