第一章 爪牙

                                   (一)

黒の着流しを着た浪人姿の侍が、肩で風をきって江戸吉原の一角の茶屋に入って行った。
腰の刀を男衆に預けると、浪人は物慣れた様子で、座敷にあがった。
ぼんぼりが開け放した廊下に向かって灯っている。
緋毛氈を敷いた上に、客の「なじみの」妓が、いた。
「よう。久しぶりだな。」
言うなり浪人はどっかりとあぐらをかいて座った。
その前に、きらびやかな衣装の妓が手をついて言った。
一の太夫ではない。しかし、それなりに箔のついた身なりだった。
「志々雄さま、ようお越し。お待ち申しておりましたえ。」
「由美、元気にしていたか。酒。」
杯をつき出すのに、由美と呼ばれた女はなみなみと酒をついだ。
志々雄真実と由美であるが、後年十本刀を擁したときの面影は、まだ二人にはない。
志々雄はまだ若く、その顔は整っており、頭はそりあげて髷を結っている。
由美も年増の色気よりもまだ、若さが目立つ様子だった。
その二人が酒盛りを始めると、すぐに音曲を担当する芸子らが、下の席で三味線を引き出した。
音の音色が何か暗い。
由美は少し気になって、そちらの方を見た。
いつもの芸子ではない。が、気にもとめずに由美は志々雄にしなだれかかった。
「志々雄さま、私、落籍したいのです。」
「ん?その話か。それにはまとまった金がいるだろう。俺は京に上ることにした。」
「まあ、京にですか。」
「京では土佐勤皇党が、ばさばさ人を斬っていやがるところだ。俺のような浪人者には、もってこいのところさ。近頃は長州の連中も、天誅に加わっているらしい。幕府も大変だな。」
「志々雄さまは、幕府と勤皇と、どちらの味方なんですの?」
「俺か。俺は強いほうの味方さ。まあ攘夷派だな。幕府はもうとっくに屋台骨がいかれている。」
杯をなめながら言う志々雄の瞳には、冷酷な光が灯っている。
―――こわいお人。何人でも斬るおつもりね。
と、由美は思いながら、酌をしながらささやいた。
「土佐に・・・つくのですか。」
「ん?それは聞くだけ野暮というものだろう。」
「そうですわね。失礼しました。」
「まあ行ってみなくちゃわかんねぇさ。」
志々雄はそう言うと、ひとしきり笑った。
と、その時だった。三味線の弦が切れたような音がした。
「・・・・あんた・・・!」
由美の顔が険しくなった。
由美は音をはずした芸子に向かって、しかりつけた。
「新入りだね。ろくに三味線が弾けやしないのに、こんな上座にまでのぼってきたのかい。」
芸子は消え入りそうな声であやまった。
「すみません・・・・。」
「あんた、何か暗いねぇ。もっとぱーっとしなさいよ。酒の席なんだから。」
「はい・・・・すみません。」
すると音をはずした芸子の横についていた、もう一人の芸子がなだめるように小声でつぶやいた。
「巴ちゃん、気にせんでええの。」
「はい。すみません・・・。」
二人は三味線の演奏を、何事もなかったように続けた。
すぐに由美は忘れて、目の前の志々雄との楽しいひと時のほうに没頭した。

                                         ●

「君菊さん、ごめんなさい、つい爪がすべってしまって。」
宴がはねた後、廊下を歩きながら巴はまた、先輩の芸子にあやまった。
「いいのよ。あんた気になったんでしょう。土佐勤皇党。」
「えっ。」
巴はどきりとして、目を見張った。
その藤色の小袖の上の顔は、驚くほど白かった。
君菊は髷をかんざしでいじくりながら、言った。
「身につまされるのよ。あんたの弾く三味線を聞いているとね。男を―――京で殺されたんだろう。」
「はい・・・・・。ご存知なんですね。」
「そりゃあんたの仕事を世話した時に、聞いているからね。武士の娘なのに、吉原で三味線弾きかい。」
「弟を育てるためなんです。」
「それだけとは思えないねぇ。あんた、その男のこと、捜しているんだろ。わかるんだよ。」
「・・・・・・・・。」
「どうやって殺されたか。殺したのは誰か。奉行所はあんたに何も言わなかったのかい。」
「ごめんなさい。その話なら、いずれまた―――。」
「あっ、ちょっとお待ちよ。」
巴は面を伏せると、廊下を後にした。


巴は思った。

たずねている。
確かに私は、たずねている。
京で、婚約者の清里を殺した者を―――。
まず、清里を京にのぼらせた男を見つけ出さないと。
そうしないと、あの人が浮かばれない。
たとえあの人が―――私を乱暴に抱いて、江戸に捨てて行ったのだとしても―――。

巴は心細さに三味線をかき抱いた。
その軸には、仕込み刀が入っている。
短刀が柄のところに入っているのだ。
なんて悲しい音色だろう。この三味線の音色は。
巴が、音曲と武芸のたしなみが少しあるというのを見て、奉行所は巴をそのような間者に仕立てたのだ。
断ることはできなかった。
巴を守ってくれる、巴の父も母も今はもういない。弟と二人きり―――そこに、奉行所はつけこんだのだ。
ただし、まだ巴は真の闇の者ではなかった。
そのような者が闇にうごめいていることも知らず、巴はただ短刀一本で、清里が消えた消息をつきとめようというのだった。
―――土佐勤皇党。もしくは、長州の者。
今志々雄がもらした言葉が、かすかな手がかりだった。
―――京に、のぼらねばならないのだろうか。縁をどうしよう。
巴は不安なまま、鳥追い女の姿になって、吉原の大門の下をくぐった。



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