『山霞(サンカ)』・序
にび色の空が何処までも広がっている先に、一羽の鷹のはばたきがあった。
鷹は、まだ歳若い少年の手から中空に放たれたのであった。
少年は藍色の庭着のようなものを着て、高く髪を後ろに結わえていた。
その様は、遠目にも白く、すらりと浮き立って見えた。
「殿、いかがでございます。このほどの鷹狩りは・・・・。」
「うむ。苦しゅうないぞ。鷹もほどよく慣れている。御庭番衆は、よい仕事をしているな。」
「御意にござります。」
四方にむかって張られた天幕の中心の椅子に、将軍は腰掛けている。
それは、蒼紫らが仕える江戸幕府の御代様である。
しかし、その面前に出られる機会は、このような鷹狩りなどの時よりほかにはない。
将軍のそばには相談役がいて、蒼紫らの様子を逐一伝えているのである。
鷹狩りをすると言っても、将軍自らが行うのではなかった。将軍は腰掛けたまま言った。
「あの鷹を扱っている者はまだ少年だな。なぜあのような者に扱わせるのだ?」
将軍が珍しく、質問をした。
あわてて相談役が走って行き、蒼紫のそばに立つ御頭に言葉を伝えて戻ってきた。
「おそれながら、もっとも御庭番衆内で今、才能がある若者らしい、ということでございます。」
「ほう。まだ十四五六ほどではないか。余は話をしてみたい。」
「め、めっそうもござりませぬ。あのような下賎な輩は、将軍様の身辺には近づけることはできませぬ。」
「ふむ。そうか。名はなんと申す。」
相談役がまた走って行って戻ってきた。今度は息を切らしていた。
「四乃森、蒼紫、という名でございます。」
「ふむ。四乃森。お取り潰しになった御家人にそのような名の者がいたような・・・・・?はて、余の思い違いか。」
蒼紫はその様子を遠くから眺めていた。
自分たちを支配してやまない存在―――将軍家。
自分は武士の地位を剥奪されて、今は下人として生きている。
そう叫びたい気持ちを、蒼紫は抑えていた。
言ったところでどうにもならない。
どうにもならない壁が、自分とあの将軍の間には、ある。ありすぎる。
「蒼紫、行ったぞ。」
老人の言葉に、犬たちがほえて行く先に向かって、蒼紫は走りながら、すばやい動作でまた鷹を放った。
それは鷹とほとんど一体となったかのような見事な動きだった。
鷹の世話をするのは、蒼紫は好きだった。
そのような生き物の世話をするのは、心があたたまる。
敵に対して刃を向ける時に比べ、どれほど心がやすらぐだろうか―――。しかし、蒼紫はそのことを決して御頭である老人には告げなかった。
そうしたことを告げると、自分は今のやや安泰とした地位を剥奪され、御庭番衆から追放されるかも知れないからだ。
安寧を夢見ることは、禁じられていた。
ただ、どんなに苦しくても自分は自分の今の道を進むだけだと思った。思っていた―――その日までは。
「鷹狩りは見事に仕事をこなしたようだね。」
蒼紫は今、将軍のいた草原からはるかに離れた、忍びの里の一角の番屋に座っている。
目の前に囲炉裏の炎が燃えていて、その前に朱の唇を引き結んだ「月の輪の宮」、)が蒼紫と向かい合って座っていた。
葉霞は、女忍者たちの統率者である。
長い黒髪をした、絶世の美女と言っていい。
そして―――。
「おまえ、幾つになった?」
葉霞が朱唇をひきあげて聞いた。
「かぞえで十五になります。」
「それなら遅いぐらいだねぇ。女を知るのは。」
葉霞は目を細めた。
目の前の少年は、まるで自ら光輝く玉のようだ。
―――ほんとうに、美しい、少年ね。
葉霞は手を伸ばして、蒼紫の髷に触った。
「私と寝たら、この髷は落とすんだよ。」
蒼紫の表情が、険しくなった。
「なんだい?まさか武士の鑑とかまだ思っているんじゃあないだろうねぇ。」
その一言、一言が蒼紫の神経を逆撫でするようだった。
しかし拒絶や抵抗は許されないのだ。
蒼紫は、あの老人の命で今ここに来ているのだ。
―――この者は、母上とは違う。
蒼紫の必死の抵抗する思いは、今それだけであった。
そうして目の前の女を否定したいのだが、女は赤い唇を開いて、蒼紫にとろりと絡み付いてきた。
「最初なんだろ?やさしくするよ。」
葉霞はふふふ、と低く笑うと囲炉裏の火を落とした。
蒼紫は逃れられない腕の下で、ただ運命というものは暗澹としたものだと、感じていた。
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