(五)

蒼紫は銀座通りの裏の一筋を歩いていた。

古い店が立ち並ぶ中の一角の、ひとつの古ぼけた店構えの写真館の前で立ち止まった。
戸口にガラスに銀色の蒸着した文字で、店の名前が書かれている。
蒼紫は何の変哲もない、その店の扉をあけた。
中には鉄ストーブが白い湯気を立てて、置かれている。
店の陳列棚のガラスケースには、市井の人々の記念写真がいろいろと並べられている。
楕円形に切り抜かれたカードの中の人々は、皆緊張しながら正装して写っている。
店の奥の小豆色のびろうどの長いすに、店のおやじは腰かけていた。
白髪で鼻眼鏡をかけた和装で、きせるをふかしながら、新聞を眺めていた。
蒼紫はおやじに言った。

「文久年間に撮影された写真があるだろう?」

おやじが新聞から顔をあげた。
「文久年間?江戸時代かね。あるわけないだろう。」
「いや、あるはずだ。これで、譲ってもらいたい。」
蒼紫は、コートの中から札束を取り出し、無造作に陳列棚の上にドサリと置いた。
その時、おやじはやっと、蒼紫が大刀を手にしている事に気づいた。
そして蒼紫の黒髪の下の目は、こちらにじっと、張り付くような視線だった。
おやじは背筋がぞくりとしたが、ある事に気づいたのか、あわてて目をそらし、おびえたように口早で答えた。
「ないものはない。帰ってくれ。昔の写真は、一見さんには売らないんじゃ。」
蒼紫はおやじの言葉を打ち消すように、言った。
「いや、あるはずだ。芸妓を写した写真だ。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「好事家の間で取引されているようだが、その中の一枚の銀板を出してくれ。」
「銀板は店の命じゃ。渡せんよ。」
「いや、芸妓というよりも、売春婦を写した写真だ。」
「ないものはない!帰ってくれっ。なんじゃ、あんたは一体。」
とおやじが言った瞬間、蒼紫の刀がおやじの耳元につきつけられた。
その拍子で、陳列棚の上の札束が落ちて、紙幣が店の床の上に散らばった。
蒼紫は言った。
「俺はもう一度しか言わん。その写真があるところへ案内しろ。」
「・・・・・・・あっ、あんた、あの写真は、誰にも見せたらいかん事になっとるんじゃ。」
「それは嘘だな。何枚か現像して流したはずだ。」
「・・・・・・・・・・・。」
蒼紫はおやじの背中をどやしつけると、店の奥に入った。
黒いカーテンのさがった現像室には、化学薬品の現像液のにおいがたちこめている。
白いホウロウのトレーが並ぶ小さい現像室の片隅の、銀板の板がぎっしりと並んだ木の棚を、おやじは探し始めた。
やがておやじはその中の一枚を引き出し、蒼紫に差し出した。
「あった、これじゃ、これじゃ、これが文久年間の写真じゃよ。ほら、鶴の上に女が乗っとる。あんたが探しているのは、これかねぇ・・・。」
蒼紫は差し出された写真を、刀の鞘で乱暴にはらいのけた。
写真が壁にぶちあたり、銀板の破片が床にこぼれた。
おやじはあわてて言った。
「あっ、そんなことをすると、写真が割れる。やめてくれ。」
取り乱したおやじの胸ぐらをつかむと、蒼紫は言った。
「俺を怒らせるな。素直に本物の写真を出せ。」
「あっ、あれを渡すと、わしの命が危ないんじゃ。」
「それは何故かな?」
「め、盟約なんじゃ。それ以上は言えんよ・・・・・あああんた、あんたがもしかして、四乃森蒼紫とかいう・・・・・。」
「・・・・・そうだが。」
「わかった、写真は渡す。手を離してくれ。」
おやじは観念したように、手をついて言った。
「そうかい、あんたが・・・・・・あんな写真一枚に、縛られとったんだねえ・・・・・。」
おやじはそう言うと、肩を落として言った。
「わしゃ廃業になるかも知れん。しかし、写真はあんたが会いに来るのをずっと待っとったよ。いろんな悪い奴が、わしを脅して、あれの現像をしては大金を置いていった。あんたも気をつけるといい。ああ、わしゃ何を言っとるんだろうな・・・・・・写真屋の感傷だと思って聞き流してくれ・・・・・・・・・・・・・・。」
蒼紫は言った。
「かつて、御庭番衆にかかわったことは?」
「あるよ。お察しの通り・・・・・しかし縁はなかなか切れん。あの写真も、わしが写したものではない・・・・・預かってくれと頼まれたんじゃ・・・・・。」
「だろうな。」
おやじは蒼紫をさらに店の奥に案内した。
そして、廊下のつきあたりにある、目立たない黒塗りの小さな金庫の扉を開けた。
おやじはつらそうに顔をそむけて言った。
「見なさい。これが文久年間の写真じゃよ。」
蒼紫は紙袋に収められている、銀板とその現像したものを取り出した。
蒼紫は食い入るように眺めた。
一瞬で時が彼方へとはばたいて帰っていく。

―――巴!

蒼紫の取り出した写真の中には、巴が上半身裸で写っていた。
白い腰巻をしめて中膝をついて、不安そうにこちらを眺めている。
背景は日本間のようであり、日本画の松原の絵の襖が半分写っていた。
写真は半分銀板が腐食したせいで、黒い点がいたるところについていた。
おやじは蒼紫を気遣うように言った。
「ああ、あんた、あんたその人とは、恋仲だったんだそうだね・・・・・。それは、その人が京都に来たときに写したものらしい。大阪の宿だったそうだよ・・・・・・・・・・・・・。人別改めのために撮影されたんだそうだ・・・・。」
蒼紫の背中が、おやじの言葉にひきつったように動いた。
悦びと憤りが半ばして、写真を持つ手がぶるぶると震えた。
この写真を撮影した者に対する激しい憎しみと、それに相反する感謝のような念・・・・・いや、俺はありがたいとは思わない。しかし、忘れそうになるのではないか、と思っていたあの巴の懐かしい遺影がそこにはあった。
白い顔、黒い髪・・・・・小さくのみで刻んだような目鼻だち・・・・・・。
あまり大きくはないが、柔らかな白い胸元・・・・・。
巴・・・・・巴・・・・・巴・・・・・・ああやはり、俺はおまえのことを愛している・・・・・・!
「おやじ、感謝する。」
それだけ言うと、来た時のように嵐のように蒼紫は店を去っていった。
おやじはつくねんと、残された店の中でつぶやいた。
「ああ、あの人の江戸は、まだ終っとらんのじゃなあ・・・・・。」

                                      ◆

神谷薫は、会津に帰った高荷恵にその日手紙を書いていた。
このところ、微熱が続き、食欲がない。
剣心は大陸に渡ったままだ。
―――剣心・・・・剣心・・・・早く帰ってきて・・・・・でないと私・・・・・。
ごほごほと咳き込むと、薫はうわがけを手でかき寄せた。
「寒い・・・・寒いわ・・・・・・剣心・・・・・・。」
春先の日和はのどかで、桜の花びらが静かに舞っている。

「恵さん、お元気ですか。調子はいかがですか。剣心は大陸で左之助と一緒に、働いているみたいです。私はこのごろ――少し、痩せました。先日ついに、剣心と私は、めおとになりました。でも、式はあげていません。そんなお金はないから・・・・ごめんなさい、恵さん。剣心は私のものになりました。いえ、私が剣心のものになったのでしょうね。
あの事件の後、みんな昔のように話さなくなりました。操ちゃんは蒼紫さんと、渡米したっきり、何の連絡もありません。操ちゃんは今頃どうしているのかなあ。元気に暮らしているといいけど。操ちゃんは最後の時、蒼紫さんと一緒で嬉しいはずなのに、波止場で別れるときに大声で泣いていました。私と別れるからでしょうか。そして蒼紫さんは――――。」

薫はそこで手から筆をすべり落とした。
薫は蒼紫のことを回想した。
―――あの人のことは最初から、私は怖かった。
薫はしかし、もう一度筆を取ると、紙にかきつけた。

「蒼紫さんは何も言いませんでした。あの人は剣心の一体何だったのでしょう。私にはわかりません。恵さんなら、わかるかも知れません。だって観柳邸であの人と一緒だったそうだから。私には、剣心を斬らなかったあの人の心はわかりません。」

薫はそこまで書いて、筆を止めた。
―――私に、うつして。その病気を剣心、私にもうつして・・・・・。
薫の脳裏に、剣心との最初の一夜がよみがえった。
―――拙者は―――。
剣心が言いかけるのを制して、薫は涙に震える目で言った。
―――一緒よ、剣心。あの世までも・・・ね・・・・・。
激しく自分を求める剣心に、薫は必死になって答えた。
―――心太と呼んでくれ、これからは・・・・・。
剣心の低いささやきが哀願するように、薫には聞こえた。
薫は手紙の紙ををよけると、手で顔をおおって言った。
「これで・・・・・これでいいのよ・・・・これで・・・・。」
涙が頬を伝い落ち、あとは言葉にならなかった。
「剣心・・・・あなたが私はかわいそう・・・・・・!」

                                      ◆

蒼紫は今、渡米する船の中にいる。
今のところは何もすることはないので、写真館から奪ってきた巴の古い写真を時々出しては眺めている。
この体を俺は斬った。―――いや、厳密には違うのだが、あの中国娘の顔は巴だった。
この写真をもとに中国医法でやつらが整形したのだ。
そして、あの中国娘の業病を知っていながら、剣心は何度も抱いていたのだった。
―――俺ならたとえ抱く機会があっても、抱かずに一刀のもとに斬り捨てていた―――。
それが俺と剣心の違いなのだ。
剣心を惰弱であると思う蒼紫だったが、そんな蒼紫でも写真を見つめていると、巴への暗い情欲の炎が、体の奥底から湧き上がってくる。
斬り捨てたことで、いっそう火照りがともったようだった。
しかし、本当の巴はもう何処にもいないのだ。
斬りたくはなかった―――この腕が。

『―――君にそんな権利があるのかね?人の命を自由にする権利が。いや、君は今までそうして生きてきたんだが――――。』

耳元で、あの時の王大人の皮肉な言葉が響いた。
俺の行く先々は、これからも屍のみなのか。
蒼紫の心の中で今、血の涙が流れていた。

操は船のデッキで、外人客と話をするでもなく、遠くを眺めていた。
―――おおおおい。おおおおい。
波の音が、操にはそう聞こえる。
過去に向かって、一人の男が、やまびこの声を求めて、谷間に向かってひたすらに叫んでいる。
あの人は私を愛しはしない。
体だけでも、愛しはしない。
今夜も、別々の部屋で、別々のベッドで、あの人と私は寝るのね。
心がこうして、離れていくのね。
でも、あの写真を蒼紫から奪い去ったら、私はきっとこの海の中に突き落とされる。
あの人はきっと、そうするわ。
夕暮れのデッキで、操は片肘をついてじっと海を眺めていた。
やがて日が暮れる。
私たちの間にも、日が落ちていくわ―――。
でも私は蒼紫から離れられないでいるのね。
操は思った。

蒼紫の心がこれから先、自分に向くことはおそらくはない――――あの人は、緋村抜刀斎とは別の道を選んだのだ。
その蒼紫の生き方を潔しとして、ともに歩んでいくことを、あの蒼紫が何処まで自分に許してくれるだろうか・・・・。
でもそれが、御庭番衆として私に示された、ただひとつ残された道なのだ。
それを私はずっと見守っていくの、できるところまで、あの蒼紫を守って――――。
操のその決意を知る者は、誰もなかった。
やがて日が暮れて、甲板のデッキを照らす客室の明かりの間を、巻町操は注意深く進んだ。
自分の姿を呼び止める者は誰もいない―――あの蒼紫でさえも。


でも、私はあの蒼紫を愛する。あの人が私を愛さないから、愛する。


そう思い直した操の心は、その時不意に明るくなった。
自分の心の動きのけなげさに、操の瞳は思わずうるんだ。
でもそれが、私の蒼紫様に捧げる愛なんだから・・・・・・。
操は涙を振り払うように顔をあげると、空にかかる白い弦月を眺めた。
その様は、今、生まれたばかりの赤子のようであった。


                                               ―完―


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