(三)

剣心は、先ほど取り乱していた時とは異なり、穏やかないつもの調子に戻っていた。
蒼紫はその様子をじっ、と観察している。
――緋村、貴様は・・・・。
剣心は言った。
「蒼紫、最初の出会いの時から拙者はそなたには、不審感を抱いていたのでござる。確かに大政奉還で、維新の志士たちに対して恨みや嫉妬を抱いている・・・それは道理だと思う。しかし、ならば拙者をだけ狙うという理由が見つからぬ。そのような理由であれば、たとえば大久保卿を暗殺した者たちと同じように、明治政府に対して天誅を下すことに賛同して動くはずだ。しかしおぬしはそうはしなかった。拙者のような影武者として生きた者をつけ狙う。そして、おぬしの職業は元御庭番衆御頭・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「拙者はしかし、今日この日まで、そのことを認めるのが怖かった。おぬしが巴の愛人であり、おぬしが巴を変えた男であるということを認めることが怖かった。それは巴が拙者を愛していなかったことを、認めることになるからだ。―――拙者はできればあの、おぬしにとっては偽りかも知れぬが、あの巴と一緒に死にたかった。そう思っていた、それが拙者に残された唯一の道なのだと思った。しかし・・・・。」
剣心はそこで、まなじりをつりあげて叫んだ。
「おぬしが巴を追い詰めて、おぬしが巴に戦いをさせたのだ!!!今はっきりとわかった。この今おぬしが倒した男が申したとおりだ。おぬしは巴を使い捨ての駒にして、捨てた。この拙者に殺させた。拙者の手を汚させたのだ。拙者は縁には詫びるつもりで、縁の剣の前には、倒れることを由とした。しかし、貴様に対しては違う!!!蒼紫、貴様だけは許さん。貴様だけは・・・・・・!!!!」
「わざと―――縁に負けたと言うのか。」
蒼紫の低い声に、うつむいていた縁の体がびくり、とひきつった。蒼紫は続けた。
「勝ちを譲っただと。貴様がそういう男だったとはな。緋村抜刀斎。」
剣心の目は蒼紫の上に完全にすわっている。
「なんとでも言え。縁に対しては、拙者には詫びなければならぬ理由がはっきりとあるのだ。大切なたった一人の姉を奪ったという理由が。しかし、貴様に対しては、それはない!!!」
「俺が・・・・好き好んで巴をおまえの元に送り込んだと思っているのか、緋村。」
剣心が激しているのに対して、蒼紫は冷静だった。その言葉は沈鬱そうに響いた。
「真実を今から貴様に述べてやろう。その頃俺は御頭ではなかった。ただの忍者の青二才で、巴の身柄をどうすることもできなかったのだ。巴はできれば、長州方の貴様の妻なぞにはせず、忍びの里で夫婦として、二人静かに暮らしたかった。ふ・・・・・・・今こうして言葉にしてみると、なんとだいそれた夢だと思う。それが許されない世界、それが忍びだ。」
「なに・・・・。」
「そしてその後、俺は忍びの熾烈な内部抗争に勝って、御頭の座に上り詰めたというわけだ。貴様の言う時系列は間違っているから、今正してみた。だが、御頭になったところで、巴はいない。そして組織の強烈な腐敗。しかも時代の敗者の側の組織だ。俺は二束三文で売り飛ばすことにした。それが御庭番衆の、俺の行った解体だ。」
「・・・・・貴様が本当はどうであろうと、巴を死なせたのは・・・・・死なせたのは・・・・・。」
「死なせたのは、貴様ではなかったのか、緋村抜刀斎。それが俺が追い求めてきた、最強の華だ。」
蒼紫の言葉に、剣心は激して叫んだ。
「卑怯だぞ、蒼紫!!!己れの技が完成していないから、今まで真実を述べずにいたとは。貴様は最低だっ!!!」
蒼紫は剣心の叫びに、苦笑した。
「・・・・・・・・俺も貴様が、女と暮らしはじめなければ、己れの卑小さを省みずに、武田観柳のところで仕掛けることもなかっただろう。緋村、貴様にとって神谷薫という女は一体なんだ?俺は今それが聞きたい。」
「薫殿は今の拙者の大切な想い人でござる。今を生きている人間を救いたい―――その拙者の想いの行き着く先にいるのが、薫殿なのでござる。拙者は、今を、生きている。」
「なるほど。巴は貴様にとっては過去の女であり、神谷薫は現在の女であるというわけだ。それは、おのおの別個に存在しているのだな。貴様の頭の中では。だから、あの偽者の巴に会っていたのは、少し時間を過去にさか戻ってみただけというわけだ。なんと便利な頭だ。」
「拙者を愚弄する気か。」
「愚弄?確かに今俺は貴様を愚弄した。しかし時間というものは、切れ目なく一方向に流れているものなのだ。過去というものは、現在とは別個に存在するものではない。」
「わからぬ・・・・蒼紫、貴様が何を言いたいのか。」
「では簡単に言ってやろう。巴を斬った貴様には、神谷薫と暮らしながら、また巴のような女に手を出す資格がないということだ。まあ俺の感情論だがな、これは。」
「詭弁を弄するなっ。」
「俺の正論が、貴様には詭弁に聞こえるようだ。」
蒼紫の冷静すぎる言葉に、剣心の体は震えたようだった。剣心はそこで、誰に言うともなく、宙を見つめながらつぶやいた。
「確かに・・・・確かに・・・・拙者は巴と過去にさかのぼって会っていた・・・・・それは許されぬことかも知れぬ・・・・しかし拙者は死にたかった・・・・・・・・・・・・・。巴とともに・・・・・・・・・・・・・・・・。拙者に許されるのは、もはやそれぐらい・・・・・そう思った。あの少女の体が、梅毒に犯されているのを見た時から・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「えっ、梅毒?」
剣心の言葉に、宗次郎が驚いて叫んだ。
「緋村さん、それではあなたの体も―――!」
蒼紫は剣心の言葉に驚いていない。
剣心が寝床にふせっているのを見た瞬間から、彼はその病の徴候を見抜いていたのである。
だから、贋巴の体を蒼紫は無残に斬り捨てたのだ。彼にはそうするしか、忍びなかった。しかし、蒼紫はそのことを言わなかった。
あまりの憤怒にである。
剣心は宙空を見据えながら、言葉を続けている。
「しかし・・・・・蒼紫・・・・拙者は貴様だけは許せないのでござる・・・・・巴は拙者の妻だった・・・・・・・妻だったのだ・・・・妻・・・・・・・・・・・・・・でも元はといえば、清里の・・・・・・・・・・そう、おそらくは清里も、貴様のことは許さない・・・・・・・・・・。」
「なぜそう思うのかな?緋村。清里を殺したのも、貴様ではないのか。」
蒼紫の言葉に、びくり、と剣心の肩は大きく引きつった。おそらく限界だったのだろう。
「貴様だけは、殺すぅぅううーーーーーっ!!!」
剣心は一声そう叫ぶと、剣をふりかざして蒼紫に飛び掛った。
抜刀術をかけるまでもなかった。
剣心にとっては、全力をかければ倒せる相手であったのだ、かつて蒼紫は―――。
剣心のまなこは、憎しみで暗い光を帯びていた。
巴とのかけがえのない生活を奪った男、それが蒼紫なのだ。
対する蒼紫は冷静だった。
相手が飛天御剣流で仕掛けてこないとわかると、その太刀は受け太刀にまわった。
二度、三度の剣心の斬り込みを蒼紫は容易に受けた。
―――まだ全力を出し切っていない。しかし―――。
不意に剣心の攻撃がやんだ。
剣心は剣を下手に構えていた。
―――次は、来る。
蒼紫は剣を縦十字の形に構えていた。
―――おそらく、天翔龍閃。
以前に無残にも敗れた技である。
剣心の気合いが走った。
剣は、斜め下から飛来した。
蒼紫は呉鉤十字の形で受けた。
―――巴は、この剣の幼い形に斬られた。
蒼紫は剣心の太刀を受けた瞬間、その猛烈な打撃力に抗しながら、実感した。
剣心は相手に自分の必殺技が敗れたと、実感するまでもなかった。
剣心は巴に必死で呼びかけていた。
―――巴、君のために・・・・・・っ!
剣心の心は今さまよっている。
今、巴の待つ雪道を歩いている。その先には、巴が待っている。―――いや、待っていた。
―――巴、拙者と・・・・・・・っ!!!
巴は、すらりと背を伸ばして、白い背景の中に立っていた。
その表情はしかし、あの雪の日にそうであったように、硬い。
―――巴、なぜ笑ってくれない・・・・・巴っ!!!!
ただ、つくねんと、剣心の罪を責めるかのように、巴はただ、立ちつくす―――。
狂う―――狂ってしまう。このままでは。巴、君に会わないまでは―――。




その瞬間、剣心の双肩から血潮が吹いた。



剣心の目が驚愕して見開かれた。


破れた――――まさか、拙者が―――――。


「あの技は―――!?」
瀬田宗次郎は瞠目した。
さっき、敵の大将を破ったときの蒼紫の技とは違う。
似ているのだが―――剣戟の数が、増えているような気がする。
いや、そんなことよりもあの「天翔龍閃」を破りながら、さらに相手に決まったという今の技はいったい―――。
―――まるで曲芸だ。
楽天的な宗次郎は、蒼紫の技を見てそう思った。
剣心の「天翔龍閃」が決まって、その体が沈み込んだとき、蒼紫はさらに上昇して、上から連続打撃技を加えたのである。
宗次郎は驚愕した表情でつぶやいた。
「おそらくは―――十回、いや、それ以上です。蒼紫さん、あなたという人は―――。」
何者にもとらわれない立場の宗次郎は、ただ単におなじ剣客として蒼紫の技に感嘆し、その場で賞賛を贈りたくなったのであった。
それは自分がかつて敗れた技を、蒼紫が見事に破ったからであった。
蒼紫は激しく肩で息をつきながら、修羅場のひとつを乗り切って、着地した姿勢で固まっていた。
抜刀斎の技は破った。破れるとは思わなかった。
自分の「九連宝塔」の技では、抜刀斎には到底勝てぬと思っていた彼は、さらに剣戟を増やすことを考えていたのであった。
しかし着地までの間に、それだけの剣戟をふるうとなれば、当然体への負担も増す。
それが今、全身を襲っている消耗感なのであった。
この「九連宝塔」以上の技には、古文書には名がなかった。
ただ、到達できる者のみが、その技を成すであろうと―――蒼紫は今、それを為したのである。
しかし勝利の余韻に浸っている暇はなかった。
「おい。」
蒼紫は小太刀を構えると、血潮を吹いて地べたに寝そべっている、剣心の体に向き直った。
ゆっくりと小太刀を、剣心の首根に添えた。
「抜刀斎―――貴様には、ここで死んでもらう。」
小太刀をかまえた蒼紫の眉間には、苦しいものがある。
この男が幕末から連綿と今にいたるまで、自分を苦しめてきたこと―――その過去の歴史が走馬灯のように、蒼紫の胸中を駆け抜けた。
だがあの観柳邸で死んだ四人も、これで浮かばれるのだと。
悪霊にしている、とののしられたことも、今となっては遠い記憶だ。
あれからこの抜刀斎は、人間として最低の行いをした。
巴に似た売春婦を抱き、その業病を背負った。
それ以上抜刀斎を追い詰めたくはない、と思ったこともあったが、今抜刀斎が吐いたセリフで、その思いも消えうせた。
巴との大切な思い出を、これ以上抜刀斎に汚されたくはない。
「ごめん―――。」
蒼紫が静かに刀を滑らせようとしたその時だった。

「やめて――――っ!!!!」

蒼紫の頭上の鉄のバルコニーから、薫の絶叫がした。
「四乃森さん、やめて、剣心を殺さないでっっっっ、なんでもするから、お願い、見逃してあげてっ、だって、かわいそうじゃないっ。」
薫の半狂乱の叫びが、あたりにこだました。
「四乃森、その辺にしておいてやれ。」
薫の横に立つ人影が言った。斎藤だった。
斎藤と左之助たちは、蒼紫らが王大人と戦っている最中に、操や薫の身柄を助け出していたのだ。
斎藤の横には、牙突を受けて気絶している、呉黒星とその手下たちがのびていた。
蒼紫は下から厳しい目つきで、斎藤の顔を見上げた。
斎藤は言った。
「貴様が抜刀斎に女を横取りされていたとはな。何かそういう宿縁があるとは、にらんでいたよ。しかしそいつは、俺にとっても獲物だ。」
蒼紫は刀を構えたまま、哂ったようだった。蒼紫は言った。
「斎藤。貴様には、俺ほどの憎しみが抜刀斎にあるのか?」
「なに。」
「貴様にはない。せいぜい新撰組の露先払いの邪魔をしたぐらいにすぎん。貴様にとって抜刀斎は、しょせんその程度だということだ。」
「ほう。言ってくれるじゃないか。で、その首は落とすのか、落とさないのか、はっきりしたらどうだ?」
「貴様には関係ない。神谷薫―――ここへ降りて来い。」
「は、はいっ。」
薫は必死で鉄階段を駆け下りて、剣心のそばに走りよった。
「剣心、剣心、しっかりして・・・・っ、剣心・・・・・。」
薫は剣心にとりすがって泣いていたが、やがて意を決したのか、首を伸ばして座りなおした。
そして、まっすぐに蒼紫の顔を見上げながら、毅然とした口調で言った。

「殺して。剣心を殺すなら、私も殺して。殺して。」

蒼紫はその様子をしばらく無言でじっと眺めていたが、不意に小太刀を納刀した。


その時蒼紫の心を襲ったのは、やはり薫への憐憫の情であった。
剣心をこの場で殺すことによって、自分は確かに巴の仇を討ったことになるだろう―――しかし、新たに薫を修羅の道に陥れることになる。
巴の仇は―――飛天御剣流を今うち破ったことで、もはや由としてもいいのではないか。
剣心はどの先、病でその命は長くはないのだ。
それを自分は最後まで看取ることもあるまい―――蒼紫はそう考え、刀を納めたのである。
その動作は、なめらかな動きで、何のとまどいもなかった。
蒼紫は言った。
「貴様たちは殺さん。抜刀斎。その女に免じて、貴様を許してやる。二人仲良く死ぬまで暮らすがいい。」
そのまま蒼紫の青い影は、その場から足音を響かせて立ち去った。
操が取り付くしまもなかった。
いや、操はその時、蒼紫に駆け寄ることができなかったのだ。
―――わたしは、わたしは・・・・・・・。
操は固唾をのんで蒼紫が遠ざかるのを、見守るしかなかった。。
蒼紫の背は、何者も近づくことを固く拒んでいるように、操には見えた。
蒼紫は、私を愛していない。そして、愛してくれない―――――。

それが今はっきりと操にはわかったのだ。

蒼紫は巴だけを愛しているのだ―――さっきまでの蒼紫の行動、言葉、そのすべてがそれを示していた。
操は雷に打ちのめされた者のように、そのことをあらためて今思い知ったのだった。
その時、操のそばにいた、御堂茜は、ふところから大切に巴の日記を取り出した。
彼女は一歩一歩、ためらうように、雪代縁に近づいた。
縁はうずくまって、呆然としていた。
この結末が信じられないでいるのだった。
どうしてやつは、抜刀斎を許した――――あんなに憎んでいたはずなのに。技を破ったことで満足して立ち去ったのが、信じられない。
俺ならあいつの首をその場でかき切るだろう―――そのつもりだった。
蒼紫に勝った時点で、俺は抜刀斎と蒼紫の首を斬る予定だった。
あいつはそれをことごとく変えて立ち去って行った。
その縁のそばに、今御堂茜が立っていた。
「日記・・・・・あなたのお姉さんの・・・・・・。」
「?!」
「読んであげて・・・・・・中から紙が出てきたの・・・・・あなたのお姉さんが書いたのよ・・・・・・・。」
「貸せ!!!」
縁は乱暴に茜から日記を奪うと、中身を開いた。
前にはなかったうすい桃色の和紙がはさまっているのに、彼はすぐに気づいた。
縁はその文面に目を走らせた。

『―――あなたさまへ―――

追わないでください
たとえ私が死んでも、何もしないでください
あなたが死んでほしくないのです
あなたが傷ついてほしくないのです
何も傷つけずに、ただあなたを思っていたい―――雪代巴』

その文章が、縁に対して向けられたものではないことが、縁にはすぐにわかった。
蒼紫に向けて、巴が書いたものなのだ―――。
縁は虚空に向かって問いかけた。

ねえさん・・・・・・。
ともえ、ねえさん・・・・・。
ねえさんは、あいつのことを、本当に愛していたんだね・・・・・。
ねえさんたちは、夫婦とかのつながりはなくても、本当に愛し合っていたんだね・・・・・。

茜はその縁にそっと語りかけ、その肩に両手を添えた。
「あなたのお姉さんは、もう何年も前に死んでいるの・・・・だから、ね・・・・・・。」
茜のか細い声に、縁の両眼から涙がこぼれた。
わかっていた、わかっていたさ、そんなことは・・・・・。
ただ、俺はねえさんがあんまりにも哀れだったから・・・・・・・。
だけど俺のやったことは無駄じゃなかったよね・・・・・ねえさん・・・・・抜刀斎は、もう刀が持てない・・・・・。
あいつはそうなってもよかったんだ・・・・・・・ねえさん、これだけは許してくれるよね・・・・・。
縁はただただ、姉巴のことが悲しかった。
彼はいつの間にか、茜を姉巴と思って、その身を投げかけてすすり泣いていた。


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