(四)
その日の夕刻、縁に呼び出された水道橋へ、剣心、左之助、蒼紫は到着して賊が来るのを待っていた。
弥彦も同行したがったが、左之助が説得し、神谷道場で待つようにした。
橋の袂の瓦斯灯が、淡い銀色に灯りだした頃合いであった。
はるかな橋の向こうから、三々五々にやってくる人影があった。
「奴らか。」
左之助が身構えたが、すぐに拍子抜けした表情になった。
「よう。ヤツらはまだ来ないのかい。」
斎藤が、瀬田宗次郎と悠久山安慈をつれて、飄々とした態で歩いてきた。
沢下条張がいないのが、幸いだったかも知れない。
「てめぇ、なんでここがわかった。」
左之助が食ってかかるのを、斎藤は軽くいなした。
「蛇の道はへびだ。おまえさんたちが襲われた賊が、贋金をばらまいたり、阿片を密売している連中だろうという、俺の見解を確かめたくってね。」
「見解というほどのことでもあるまい。」
蒼紫だった。
「貴様らが邪魔をしに来る事はわかっていた。」
斎藤は蒼紫の言葉に、口の端で笑った。
「邪魔とはひどい言い草じゃないか。俺は、おまえたちの助太刀に来てやったんだぜ。」
瀬田宗次郎が剣を肩にのせて、明るく言った。
「そうですよ。緋村さんは、体がお悪いんじゃありませんか?斎藤さんが、それとなく・・・・助けてやれ、とか。」
ニコニコと宗次郎の笑みを浮かべた言葉を、蒼紫の冷たい口調がさえぎった。
「そこまで知っているのか。」
斎藤は答えた。
「悪いがおまえたちには、俺たちが張り付いていたのさ。何、見張りを立てていたわけじゃない。出入りの御用聞きとかを、洗ったのさ。最近どういう具合だ、とかな。しかし・・・・・。」
斎藤は黙っている剣心に向かって言った。
「抜刀斎。命は惜しんだほうがいい。貴様との勝負の決着もまだついていない。こんな雑魚に気を取られて、具合を悪くされては俺は困るんでな。」
剣心は刀に手をかけて斎藤に鷹揚に答えた。
「雑魚ではござらんよ、雪代縁は―――。」
蒼紫も斎藤から、別の方向に向き直って刀に手をかけていた。
「もう来たようだ。敵は、三人か。」
「それぐらいでござろう。蒼紫、縁には拙者が。」
左之助が二人の様子にあわてて、拳をふりかざした。
「なんだっ、来やがったのかっ、野郎、隠れてねぇで出てきやがれ!」
瞬間、左之助の足元に鋼鉄製の矢が飛んでグサリと地面に突き刺さった。
「ふふふ・・・・・うるさい男だね・・・・・。」
「なんだ、てめぇ?」
水道橋の袂に、上ったばかりの月に照らされた三人の人影がある。
うちの一人は、ひらひらと着物の飾りを暮れなずむ闇にひるがえしていた。
矢はその男の方角から飛んできたのだった。
「乙和さん、軽はずみですよ。」
真ん中のめがねをかけた背の高い男が、いさめるように言った。
と、男は腰からスラリと長い刀を引き抜いた。
雪代縁だ。
縁はゆっくりと剣心らに近づきながら、言った。
「抜刀斎。俺は貴様と蒼紫だけで来るように書いてよこしたはずだが、これはナンだ?何人そこにいる。約束反故もいいところだ。」
蒼紫が答えた。
「貴様も四人で来た。同じことだ。」
縁はふっ、と鼻先で笑った。
「まずは雑魚を片付けなければいけない・・・・・戌亥さん、乙和さん、たのみますよ。」
戌亥と呼ばれた男が、いきなりこちらへ走り出した。
―――鉄甲か。
左之助が思うひまもなかった。
左之助の顔面に、戌亥番神の鋼鉄製の手甲がぶちこんでいた。
「うぉっ。」
安慈があわてて、左之助に向かって走り寄った。
「おせぇっ。」
戌亥番神は安慈よりはひとまわり小さいので、身軽だ。
ようようと安慈の頭上を飛び越えると、後ろざまに安慈の頭を蹴り上げた。
安慈は前のめりに倒れた。
その間、宗次郎と斎藤は乙和瓢湖の暗器の矢の攻撃を受けていた。
縮地の足技を持つ、天剣の宗次郎―――しかし、その宗次郎でさえ、一歩も踏み込めないでいた。
斎藤などは、立ちすくむよりなかった。
牙突を繰り出そうにも、矢はものすごい速さで、立て続けにこちらへ飛んでくる。
乙和瓢湖は楽しそうに言った。
「あなたの技―――聞いていますよ。瀬田宗次郎。」
「なにっ。」
「確か、縮地とかいう、琉球の走法でしょう。でも、この私の暗器にはかないますまい。縮地は封じましたよ。」
乙和瓢湖はそう言うと、朱唇をひきあげて、肩から大きな獲物を取り出した。
蜘蛛の手のような、熊手だった。
斎藤の刀にその熊手がぶち当たった。
「貴様っ。」
「尻尾を巻いて逃げるんですね。そろそろ、最後の仕上げです。」
その間も、剣心、蒼紫と縁のにらみ合いは続いていた。
剣心は縁に言った。
「縁。貴様が殺したいのは、拙者でござろう。薫殿、操殿は関係がないはず。それに、女学生も一人、さらったと聞いている。何故そんな事をする。」
「何故・・・・それは貴様らが堕落し、腐敗したからだ。女と楽しそうに暮らせる身分だと思うな。」
「身近な人々の平和な暮らしを願うこと、それが何故堕落なのか。自分に今出来ること、それの最小限のことをしなければ、と拙者は思い、心がけてきたつもりだった。市井に生きることの大切さを、薫殿は拙者に教えてくれた。その薫殿を、縁、おまえは人質にとって、拙者に人の道を突きつける。まずは、己れが人の道にもとることをしている事を、知ったほうがよかろう。」
蒼紫は黙って剣心の言葉を聞いている。
剣心のこの説教を聞くのは、これで三度目だ。
一度目は武田観柳の館で、二度目は志々雄真実のアジトで・・・・・。
耳障りのよいその言葉は、蒼紫の耳にも心地よい。
しかし。
――そんな綺麗事では、この縁は動かん。
人の道にもとる、か。
蒼紫は縁がどう出るか見ている。
今の剣心の言葉で、縁はさらに猛ったはずだ。
『人誅』という果たし状に書かれた文字は、縁にとっては本気なのだ。
それを、真っ向から否定するような今の言葉―――縁は黙ってはいまい。
縁の技について、蒼紫は縁に倒された娼館の客について調べあげていた。
かなりの使い手であるのは確かだ。
あの縁が、大陸でそこまで成長したのだ―――。
縁は案の定、剣心に対して構えて言った。
「今の言葉、抜刀斎、きさまは己れの姿を見ずして言ったとだけ、言っておこう。」
構えた縁の顔が、歪むように笑った。
縁の第一撃が剣心を見舞った。
――速い!
剣心は間一髪でよけているが、縁の攻めの猛攻は、ものすごかった。
立て続けに剣が打ち込まれていった。
「姉さんを・・・・姉さんを・・・・返せっ!」
縁のうわずった声が、剣心に剣とともに叩きつけられた。
「姉さんを―――――――ッ!」
剣心は縁に押されている。
――助けに行くか。
蒼紫の心に、その時毒のように別の考えが生じた。
この剣心を、俺は見捨てたい。
操のことも、もはやどうでもいい・・・・・。
その時だった、蒼紫の体を縛るように無音の音が鳴ったのは。
――なんだっ?!
ほかの者は気づいていない。
蒼紫の耳にだけ、その耳障りな音は聞こえる。
その音が聞こえると、体の自由が奪われる。
蒼紫の耳は、忍者としての訓練を受けているので、普通の者よりも可聴範囲が広く聞こえる。
その「聞こえる範囲」を狙って、その「音は」飛び込んできた。
抜刀斎と言えども、そのような訓練は積んでいないので、剣心の動きには変わりはない。
蒼紫は戦慄した。
――俺だけを狙っている。忍びの者、土蜘蛛か。
蒼紫は苦悶しながら、苦無を二方向に投げた。
ひとつは、乙和瓢湖の暗器を操っている手首に当たった。
「乙和さんっ。」
縁が驚いた声をあげる。
それに気どられたのか、ふっ、音がやんだ。
縁も音には気づいていたようだった。縁は言った。
「ちっ、四乃森はあいつが・・・・・。」
と、その時、斎藤が乙和に太刀をあびせた。
「ギャーッ!」
乙和瓢湖は斎藤に斬られた肩を押さえた。
血が噴水のように流れていた。
もうひとつの苦無の行き先は、蒼紫だけが知っていたが、手ごたえはなかった。
――はずしたか。
と、その時はじめて、戌亥番神は仲間がやられたのを知った。
「ちっ、乙和の野郎。雪代の旦那、ここはひとまずひきあげたほうがよさそうだぜ。」
戌亥番神は、安慈を一撃で倒したものの、左之助の二重の極みには手こずっていたのだ。
「仕方がないですね。」
縁はあっさりそう言うと、橋の上からひらりと身をおどらせた。
ほかの二人もそれに続いた。
「あっ、貴様ら、待ちやがれっ。」
左之助があとを追おうとしたが、斎藤に止められた。
「さて、あとは瀬田宗次郎にしたがって行ってもらおうか。瀬田の頭には地図が入っている。奴らのアジトは、この橋の下の地下水道の先にあるんでな。」
「なんだと?」
「ここの地下水道は迷路のようになっている。俺はこの負傷した坊主と引き上げるさ。」
「てめぇ・・・・・・・。」
左之助が言うのを、剣心が押しとどめた。
「斎藤の言う通りにしよう。警察の手駒として扱われようと、今は薫殿、操殿の行方を捜すのが先決。」
「罠だぜ、それも見え見えの。」
「左之助・・・・おぬしも来ないほうがいいかも知れぬ。『人誅』の約束をたがえた事を、縁は怒っている。」
「しかし・・・・・。」
「すまぬ、左之助。」
剣心の蒼白になった顔を見て、左之助はしぶしぶ剣心にしたがった。
剣心と蒼紫、それに瀬田宗次郎は、たいまつを手に洞窟のようになっている、地下水道の中に入って行った。
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