(二)

相楽左之助は白法被を羽織った肩で風を切るようにして、路地裏を歩いていた。
剣心の具合が、あの「人誅」の張り紙を見てからどうも良ろしくない。
今も臥せっていて、恵が玄斎先生のところから時々様子を見に来ていた。
恵は剣心の簡単な診察を終えると、左之助に向かって言った。
――剣さん、どうも様子が変ね。薫が連れ去られたショックでしょうけど、微熱がちっとも下がらないのよ。それに・・・・。
恵は左之助に注意深く言った。
――ともえがどうした、とか、ともえに会ったとか、言うの・・・・あなたは心あたりあるかしら?ともえよ、ともえ。
左之助は肩をすくめて答えた。
――知ってるわけねぇだろ。俺りゃ剣心のこと、なんでも知ってるわけじゃねぇんだ。ともえ、ってのは女の名前だな。剣心の昔の女とか・・・・。
左之助が椎の葉を口にくわえて横目で言うのを、恵はむっとしたようにさえぎった。
――ええそうね、きっと剣さんの昔の女の人なんでしょうよ。とにかく、薫がさらわれたんだし、変な置手紙もあったんでしょう。警察に届けたほうがいいわね。どうせ及び腰でしょうけど、女の子が一人さらわれたぐらいじゃ・・・・。
というわけで、左之助は警察に出向くために、今往来を歩いているわけなのだった。
と、その時警察署のレンガ造りの四角い建物から、左之助は見慣れた人物が出てくるのに出くわした。
コート姿の四乃森蒼紫だ。
――なんだ、蒼紫の野郎、警察に何の用事で・・・・。
「おい、待てよ、四乃森。」
左之助が大声で呼んだので、蒼紫は立ち止まった。
「あんた、サツに何の用事で出入りしているんだ?」
蒼紫は落ち着き払って答えた。
「神谷薫の捜索願いか、早く出したほうがいいな。」
「なん―――なんでそれを知ってやがる。」
「俺も調書を取られたんだ。これから帰るところだ。」
「調書。またなんでそんな。」
「操につけた使用人の老婆が賊に斬殺された。操もまだ行方不明なままだ。」
左之助の目が蒼紫の言葉に丸くなった。
「まさか・・・そいつは、『人誅』って野郎の仕業じゃ。」
「そのまさかだ。神谷道場では殺人が行われず、幸いだったな。それでは。」
軽く頭を下げて去ろうとする蒼紫の肩を、左之助は乱暴に引き戻した。
「おい、待てっつぅんだ。なんでそこで、ハイさようなら、できるんでぇ、てめぇはよぅ。てめぇのところもあの人誅野郎に押し入られたんだろう?ここはひとつ共闘作戦といこうじゃないか。あんたんところには、こんな置手紙はなかったのかい?それとも、聞くだけ野暮ってもんか、その態度じゃな。」
「・・・・・・・・。」
「『明後日、水道橋の袂にて待つ。ただ一人で来たれり。神谷薫を生きて返してほしくば、いざ尋常に勝負せよ。これは人誅である。天知る地知る、人誅の報いをその身でもって受け止めるべし。雪代縁』―――あんたんところには、似た文面の手紙は放り込まれなかったのかい?」
「その手紙なら、今朝届いた。」
「なら、俺の言うことがわかるだろう?あんたと剣心は、その雪代縁に何か恨みのようなものを、買っているようだな。」
「昔の話だ・・・・。」
蒼紫が言うのを、左之助は追いすがるように言った。
「俺にそいつを聞かせてもらえねぇかな?剣心の野郎は、今熱で頭もあがらねぇんだ。それでも、その水道橋とやらに行かねぇと、薫嬢ちゃんの命ががやばいときてる。俺ももちろん助っ人はさせてもらうが、事情が全くわからねぇからな。」
「貴様に話すことは何もない。俺と剣心と雪代縁だけの問題なのだ。」
「なんだと。」
「抜刀斎のところへ行く。様子を見たい。」
「おい、てめぇ、秘密主義かよっ、教えろよ、こら。」
先を歩く蒼紫の態度は、まさに木で鼻をくくるかのようだった。
左之助はしばらくその背中に悪態をついていたが、やがてあきらめた。
――こいつは、口を割りそうにない・・・・・ともえって女が関係しているのか。まさに三ツ巴だな。
と、そこで左之助は武田観柳のところで初めて見た時の蒼紫を思い出していた。
――こいつも、剣心のことは恨んでいやがった。口ぶりは、公武合体で慶喜公が帰順したから、自分ら御庭番衆は出番がなくなったということを悔いているようだったが―――果たして本当にそれだけか。しかし、剣心の野郎には恨みに思っていやがるヤツの数が、多いなあ。俺はちょいとゾッとするぜ。あの志々雄真実も、恨みに思っていた野郎の一人だったからな・・・・。そいつと手を組んでまで、剣心を追い詰めやがったんだ、こいつも。やっぱり得体が知れねぇ。
左之助は、さっき蒼紫に手を組もうと簡単に言ったことを、すこし後悔していた。
――観柳邸で剣心を狙っていた時にも、その巴とかいう女が関係していたのかも知れねぇ・・・。
と、左之助は今思っている。
と、蒼紫がふと漏らすように左之助に言った。
「貴様にはこれだけは言っておこう。雪代縁は、姉の巴を剣心に殺されたから、その仇を討つつもりなのだ。」
左之助はやっと蒼紫の返答が得られたので、食いつくように言った。
「姉の巴?やっぱり巴という女かよっ。」
「どうした。何かあったのか。」
「剣心の野郎が、巴に会ったとか、うわごとで言うんだ。その、巴って女に・・・・。」
蒼紫の目が一瞬鋭く光った。
しかし、蒼紫の声はつとめて平静であった。
「そうか。巴に会っていたのか・・・・・。」
左之助は蒼紫にぎょっとなった。
蒼紫の顔は凄愴とでも言うべき薄笑いを浮かべていた。
――今の顔はどういう意味なんでぇ・・・・・。
剣心は、神谷道場の奥の間で布団に横になっていた。
左之助は剣心の枕元に座ると、そっと声をかけた。
「おい、剣心。蒼紫んところもえれぇ具合らしい。操がさらわれやがったんだと。そんで、蒼紫も今来てるぜ。」
「蒼紫が・・・・・。」
剣心は手をついて起き上がった。
「みっともないところを見せてしまったな・・・・蒼紫。拙者、不覚を取った。薫殿を・・・・・・・・・・・。」
剣心は起き上がったが、今は熱も下がり、様子も穏やかである。
剣心が今は正気にあるのを見てとり、蒼紫も普通のことしか剣心には尋ねなかった。
「緋村。水道橋にまでその体で行けるか。」
剣心は蒼紫の言葉に、素直に微笑を返した。
「なんとか、行くつもりだ。そこで・・・・縁に・・・・会わねばなるまい・・・・。」
「そうだな。俺も操を奪われている。取戻さねばなるまい。」
「そうか、おぬしも・・・・縁は、しかし、拙者と一番戦いたいはずでござるよ・・・・多分・・・おそらく・・・・・。」
剣心はそこで、ごほごほと肩をゆすって咳き込んだ。
剣心は言った。
「最近・・・恵殿に気になることを見立てられた。拙者の殺さずの剣は、あともう数回しか討てぬというのでござる・・・・体が、飛天御剣流の酷使に耐えられなくなってきているのだそうだ・・・・そうなる前に、縁とは戦わなければならない。」
「勝つつもりか。」
「ああ。勝たずばなるまい。縁は、間違ったことをしている。それを正さねば・・・・・・。今を生きる人々の暮らしを守ってこそ、正しい剣の道だ。縁はそれを踏み外している。」
蒼紫は剣心の今漏らした言葉に、瞠目する思いでなかったと言えば、嘘になる。
――あと数回しか討てぬだと。
なんとふざけたことを、とは蒼紫は思わない。
己れにしてみても、技の絶頂期は既に過ぎているのかも知れないのだ。
剣というだけではない、体を使う人間のそれは運命のようなものであった。
緩慢にして長い老い先がその先にはあった。
そして。
今自分が剣心に向かって、およそどうでもいいことばかり話していることを、蒼紫は自分でも気づいていた。
本当に知りたいことは、こんなことではない。
しかし。
――俺は、この剣心に巴のことを話すのは嫌だ。
嫌というのは、生理的な嫌悪感であった。
左之助の話から総合すれば、街の娼婦に剣心は巴を見たという。
たとえそれがどんなに巴に似た女であったとしても、蒼紫にはそれが許せなかった。

――本物は、ひとつだけだ。

切るように斜めに垂れた蒼紫の黒髪の下で、落ち着きはらって見える眼の上に、今や別の残酷な景色が写っていた。
その本物、というのは、透徹した純粋なものである。
それは蒼紫があの茶室でかいま見た時の、巴の裸体について思うことであった。
あの時間は一瞬であり永遠であり、二度と同じ時が繰り返されることのない厳粛たる時間であった。
あの時間の持つ純粋さが、似たまがいものによって汚されるのだ。
それは、茶人が、真贋を茶器に問うようなものに似ている。
その茶器の価値がわからない人間には、気ちがいじみた思い入れにしか見えないものだ。
しかし、それが真実、蒼紫という男の本性であった。
――だから俺は、巴のことを剣心に話すすべを持ち合わせていないのだ。
それはこれから先も・・・・。
蒼紫はその日、剣心と左之助に、水道橋で待ち合わせる旨だけを決めて別れた。
帰宅したしもた家には、まだあの血文字の「人誅」の文字は残されていた。
その前に座って、蒼紫は思う。
――縁。俺たちの前から姿を消してから、おまえは何処へ行っていたのか・・・・しかし、その恨みを俺に向けたい気持ちはわかるぞ。
答えてやらねばなるまい、縁に―――。たった一人の姉を殺されたおまえに・・・・。
しかし、縁は剣心にその憎しみをぶつけるのだろうか。
蒼紫の心に、今、縁への思いが交錯した。

戻る