第二章 人誅 (一)
漆黒の闇の中に、女が一人座っていた。
周りには豪奢な中国風の調度品がしつらえている。
その豪勢な部屋のある屋敷は、東京湾を望む高台にあった。
闇が揺れて、背の高い中国服の男たちが女のそばに立った。
「薬の量は?」
男の一人が、女の瞳孔の開きを調べている。
灰色にしわがれた、せむしの男が中国服の男に答えた。
「はい。間歇的に与えているので、禁断症状は出ないかと思います。梅毒の進行を麻痺させるにはよろしいかと。」
「大麻が効くとは、毒をもって毒を制するということか。」
「しかし脳にはもう毒は達しています。痴呆症状が出始めておりますな。」
「あと少し役に立ってもらうだけでいいのだ。もともと大陸では、奴隷だった女だ。しかしここまで整形外科が成功するとは、日本の外法忍法の技も、おそるべきものだな。土蜘蛛とやら。」
「恐れ入ります。」
中国服の男が含み笑いをした。
黒髪を後ろに髪油でぴったりと撫で付けている。
端正な表情の男だが、時折見せる表情は驚くほど酷薄であった。
灰色の男は、面倒そうに言った。
「王大人、雪代縁が梨花に会いたがっています。」
「後で通してやれ。」
男たちは、部屋を後にした。
梨花は鼻歌のようなものを、低い声で歌ってベッドに座っている。
その容貌は驚くほどあの巴に似ていた――が、崩れたような印象がやはりある。
と、ドアがすこしずつ開いて、そこに長身の男が立った。
雪代縁だ。
梨花は縁に気づかないで、しばらく歌っていた。
と、梨花の顔が何かの思い出を思い出したように一瞬ゆがんだ。
記憶の混乱であった。
梨花は片手を突き出して、叫んだ。
「旦那さま・・・梨花をお許しください。なんでもしますから・・・・・!」
梨花はベッドから滑り落ちて、床の上にうずくまって、肩を震わせていた。
「罰を・・・・・罰を・・・・罰を・・・・・鞭打ちは・・・・お許しを・・・・・。」
「ねえさん・・・・・・・・・・・・・・!」
暗がりから、雪代縁は飛びだした。
梨花の体をかばうようにして、縁は抱きしめた。
「ねえさん、泣かないで・・・・あんなヤツに抱かれて、ひどい病気に犯されて・・・・・。」
「あ・・・・あ・・・・ああ・・・・・。」
梨花は縁の腕の下でうち震えていたが、縁がおそるおそる指先で顔をあげさせると、やや安心したように微笑んだ。
気のぬけたような、表情だった。
その馬鹿のようなふぬけた笑顔に、縁は一瞬胸をつかれたが、ささやいて言った。
「ねえさん・・・・歌ってくれ・・・・。」
「歌・・・・。」
「そう・・・・・歌だよ・・・・・そのまま、歌ってくれ・・・・・。」
縁の頬に一筋の涙がこぼれた。
この梨花が偽者なのは、縁にはよくわかっている。
しかしそれでも、かりそめの姉弟である「ごっこ」をやめることはできないのだった。
――もう用済みだな。
いつかそう王大人が宣言し、この梨花がもし斬られたら、縁は自分の育て親である、王大人を殺すつもりでいた。
その前に緋村抜刀斎は倒すつもりだが、その後の梨花の運命を考えると、縁は沈うつにならざるを得ない。
梨花が生き延びる可能性の確率は、わずかなものでしかなかった。
今も、高い麻薬や治療薬を使って、「延命」させているのだ。
王大人が縁の復讐に気まぐれのような興味を示し、姉そっくりの間者を用意するまでは、縁も王大人を信用していたが、その見返りに王が自分に終生の隷属を要求するであろうことは目に見えていた。
大陸に流れ着いたとき、九龍島のスラムで放浪していた縁を、拾い上げて育て、技を伝授したのは、ほかならぬ王大人であったのだ。
――君が緋村抜刀斎と四乃森蒼紫という男に復讐をしたいというのはわかった。だが、ただ倒すのは芸がない。私は君に、「姉さん」を作ってあげようと思う。その「姉さん」の目の前で、君は二人の男を血祭りにあげたまえ。
その時は、王大人の言葉を鵜呑みにして、喜んだ縁だったが、巴そっくりの梨花を使っての復讐が始まったとき、縁の心に去来したのは、途方もない虚無感であった。
――それでも、ヤツらには「人誅」を見舞うのだ。それが、死んだ姉さんの仇をとるということなんだ。
縁はそう思って自分を鼓舞しようとしている。
従って、蒼紫のところでは、老婆を切り殺して血文字まで書いてみせたのだ。
それを見た蒼紫が自分のことをどう思うか―――縁はじっとそれを今は考える。
幼いときは、何の疑問も持たずに、蒼紫をただ「姉を手伝ってくれる親切な兄さん」ぐらいにしか考えていなかった。
姉の身を預かってくれて、清里の仇を討つのを協力してくれる、親切な兄さん。
しかし。
――姉さんは、戦いをする人ではなかった。それを、見所があるとか言って、たらしこんだのがあの男なのだ・・・。
縁は今は、姉を斬殺した緋村抜刀斎に相当するぐらいの恨みを、蒼紫には感じている。
その上、姉が蒼紫のことを深く愛していたとなれば、それ以上の恨みと言ってもいいかも知れない。
――姉は、あいつの言うことをなんでも聞いていて、死んでもいいと剣心と戦ったのだ。なのにあいつはのうのうと生き延びてやがる。許せない。
その蒼紫までもが、東京で別の女と暮らし始めた。
縁の心は、それを知った時、復讐に燃え上がったのだ。
ちょうど王大人の「事業」の展開がうまく軌道に乗りそうなので、王も縁が東京で殺しをするのに協力的であった。
こうして賽は振られたのだった。
――まずは、水道橋の某所に誘い込んで、そこで弱らせるんだ。あいつらはきっと、仲間をつれてくるはずだからな・・・・。相楽左之助か。
縁は梨花のそばをつ、と離れると、重いびろうどのカーテンを開いて窓の外を見た。
ここは隅田川の河口堰付近で、箱崎あたりの王大人のアジトのひとつである。
昼間の白い日差しの中に、東京湾の平和なレンガ造りの倉庫の立ち並ぶ風景が広がっていた。
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