(七)
蒼紫が彦馬に会ってから数日後のことだ。
蒼紫は今、荒川沿いの問題の私娼窟の近くに張り込んでいた。
無駄でも何でも、やらなければならない任務だ。
と、その時である。
―――抜刀斎が現れるとは。
蒼紫は一瞬わが目を見張った。
剣心がふらふらとした足取りで歩いていき、一軒の家の中に吸い込まれるのを目撃したのだ。
―――面白いものが見られるかもわかりませんよ。
彦馬の言葉はこの事だったのか、と蒼紫は思った。
―――緋村。貴様、まさか・・・・・。
剣心はやがて家から出てきた。
着物が着崩れている。
―――女か。
見た瞬間、蒼紫の中で、何かが壊れた。
やはり神谷薫では飽き足らないのか。
蒼紫はゆっくりと剣の鯉口に手をかけた。
今なら簡単に斬れるかも知れぬ。
だが、蒼紫の中でもう一人の自分が争っていた。
巴は、そんな勝利は喜ばない・・・・・・奴が逆刃刀を返して、真剣で戦った状態で勝利することこそ、その剣に斬られた巴に捧げられるべきものだと。
何故なら巴は―――。
ああ、巴。
―――ほかの植物は使いましたね。麻薬なんて、弱い人間が使うものです。
彦馬の言葉が、蒼紫の胸を今深く刺した。
あれは忍びの里にいた頃だった・・・・・。
「まあ、綺麗な花。」
藤棚に一杯に広がってぶらさがった白い花を、巴は目を見張って眺めている。
「あなたさまが咲かせましたの?私・・・・・あなたさまが花を育てるなんて、思いも寄りませんでした。」
二人はまだ師弟になったばかりであり、巴は清里の仇を討つことを、半ば同意したような形だった。
もちろん二人の間にはまだ何もなかった。
そればかりか、巴は縁のところへ返してほしいと懇願していたのであった。
その日も巴は蒼紫にこう言った。
「そろそろ返してくださいませんか・・・・あの・・・・私にはできないと思います。死ぬのは怖いですし・・・・・。」
「あなたには、その才がある。あるから、こうして、目をかけている。」
「冗談ではありません・・・・・あの・・・いつになったら・・・・・。」
巴は消え入るような声で、おどおどと言い募った。
「こちらへ。」
蒼紫は数寄屋造りの小さな茶室に巴を通した。
先代御頭と蒼紫がよく密談をした場所であったが、今は先代はその場にはいなかった。
蒼紫は巴の前で、点前をたてている。
巴はおとなしくその前に座って、蒼紫の袱紗さばきなどの作法を見ている。
やがて茶せんを返して蒼紫は茶器を巴に差し出した。
何の変哲もない、緑色の液体が泡だてて中に満たされている。
「・・・・・いただきます・・・・・。」
巴は静かに一礼をすると、茶器を回して液体を飲んだ。
白い喉が動くのを、蒼紫は食い入るようにじっと見つめた。
「ですから、私・・・・・清里のことは、もうあきらめてもよいのです・・・・・・長州など、私の手に負えるものではありません・・・・。」
「清里を愛していたわけではないのか。」
「私は・・・・私は・・・・清里を・・・・・・。」
言いかけた巴の唇がこまかく震えるのを、蒼紫は美しいと思った。
しかし、その目を蒼紫はすぐにはずした。
触れてはならない、水面に浮かぶ桜の花びら。
風にゆれて、手の届かない水底に今にも沈んでしまう。
巴は触れてはならない花であると思うのは、しかしその頃の蒼紫には耐え難いことであった。
―――だが俺は、巴を汚した。
蒼紫は今はそう思う。
だから、その巴に捧げられるものは、最高の美でなければならない。
抜刀斎が全力で元の姿に戻ったところで、その首を小太刀ではねる。
それは復讐であり、同時に失った過去の記憶の浄化であった。
抜刀斎は神谷道場に向かっている。
薫のところへ帰るつもりだ。
尾行したところで、何が出てくるものでもない―――ただ、薫が出迎えるのを、確認したいとその時蒼紫は思った。
剣心は、夕暮れの神谷道場の門の前で、半ば呆然と立っている。
「あ・・・・ああああ・・・・ああ・・・・・。」
剣心が門を見て、何かうめいている。
そうしてから、剣心はあわてて道場の中へ走り入った。
蒼紫は剣心がいなくなるのを見計らって、陰から躍り出て門の前に立った。
門の前に何か紙が一枚貼ってある。
「人誅――――。」
白い半紙に、墨蹟も鮮やかに、大書されていた。
蒼紫はその時はっとした。
中で剣心が薫を呼ぶ声がした。
弥彦が出てきて、何か剣心に言っているようだ。
弥彦は無事だが、薫はいないらしい―――と考えた時、蒼紫の頭の中である事が組み合わさった。
あわてて踵を返して、蒼紫は操の住む山手に向かった。
「―――操!」
蒼紫は勢いよく引き戸をひきあけた。
家はもぬけの空だった。
戸口に、争った形跡がある。
蒼紫は家の中に入った。
奥の間から血のにおいが流れてくる。
蒼紫は襖を開けた。
使用人の老婆が、畳の上にできた血だまりの上で、こときれて倒れていた。
胸から腹にかけて、一閃した刀傷がある。
その寄りかかった白い襖の上に、老婆の血で血文字が襖いっぱいに大書されていた。
蒼紫の目がほそまった。
その文字は、「人誅」であった。
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