(六)
剣心は今、河岸をひとりで歩いていた。
―――薫殿は拙者の残した巴の日記を読んだだろうか。
多分、読んだ。
読んだはずだ。
薫の目が、いつもと違って動揺していた。
もう少しだ・・・・・拙者のことをわかってくれる薫にするのは、もう少しだ。
巴と祝言をあげたくだりも、薫はもう目にしたはずだ。
弥彦の前では、いつも通りに明るく振舞う薫だったが、時々いつもと違って呆けたような顔になる。
その顔を、剣心はかわいいと思う。
そういうかわいい娘のところで、残りの人生を送る―――それは、剣心の心にあいた傷を埋めるに、絶好の機会であり、場所であった。
だが。
剣心は河岸で立ち止まった。
追ってくる――――あの男は、何処までも拙者を追ってくる。
何故本当のことを言わない。
あの四乃森蒼紫という男は―――。
剣心の心が、蒼紫のことを思うと、打ち震えた。
頭の中に、蒼紫のあの時の言葉が、割れ鐘のように反響する。
その声を聞くと、頭が割れそうになる―――誰か拙者を助けてくれ。
「最強の華を手にするためならば、俺は何にでも変わってみせる。」
剣心はその蒼紫を既に半死半生の目に、二度もあわせている。
殺してしまえばいいのだ、と思うのだが、技の上でも殺せないばかりか、あの男がおそらくは巴を変えたのだという予感が、剣心の心を打ち砕くのだった。
背中からいつ斬られてもおかしくない殺意を、剣心は常に蒼紫には感じている。
御庭番衆は恐ろしい連中なのだ。
しかし拙者は、人の道を説いて退けたはずだった。
拙者はけして間違っておらぬ―――悪いのはおまえ達のほうだ。
しかし――――。
巴が愛していたのは拙者ではなかった―――巴は拙者を愛してはくれなかった。
それが明白なものとなるのが、剣心は怖い。
拙者は巴を殺しはしなかった。
拙者は殺すつもりはなかったのだ。
あれは巴が悪いのだ。
巴を拙者はあんなに愛してやったのに、巴は・・・・・・・・。
剣心は足をひきずるようにして、暗い路地に入った。
もう酒は何杯か飲んでいる。
これ以上は酔えそうになかった。
「そんなにおいしそうに、お酒を飲むから。」
「おいしい。あなたに会って、お酒の味が変わってきました。」
「私も昔は、お酒にたよってばかりいて―――。」
くすくすと笑うような巴の声が、剣心の耳元でささやく。
「巴・・・・・・・。」
剣心はその木戸にぶちあたるようにして、中に入った。
「お兄さん、いらっしゃい。いつもの部屋かね。」
「ああ・・・・。」
男が剣心の手を取って、二階の階段へと導いた。
薄暗い木の階段は、暗黒へとつながっているようだった。
最初に見かけたのは、町の往来だった。
―――巴!
確かに巴を見た、とその時に思った。
それが何度かひき続き、剣心はその娘の後をついに尾行することにした。
娘は路地の裏に吸い込まれた。
娘は着物まで巴とそっくりだった。
「あの娘が巴のはずがない。帰ろう。」
と思ったその時だった。
後ろから木で殴られ、剣心は失神し、気がついたときは、その娘が体の上にいた。
朦朧とした頭で、剣心は尋ねた。
「君は・・・・・。」
「雪代巴・・・・・・・・。」
娘の発音が、少し変だった。
しかし、体は動かない。
娘が忍び笑いを漏らしながら、剣心に顔を寄せて尋ねた。
「あなた、私のことが好きか?」
なぜか好きだと言いたくなり、剣心は首を縦に振った。
この娘は髪型ばかりか、顔まで巴とそっくりだ。
あとは、その逢瀬を繰り返して続けている。
まるで坂道を転がり落ちていくかのようだった。
「巴・・・・・今日も待っててくれたのかい・・・・・。」
「はい・・・・・剣心さんのこと、私は好き。」
「そうか・・・・・。」
今では、娘の衣装が中国風のチャイナ・ドレスに変わっていても、剣心はかまわず手を伸ばした。
白い絹服の胸の上に、紫の糸で蘭の模様が描かれている。
「綺麗だよ、巴・・・・・。」
その服をゆっくりと脱がしていく。
白い太ももが割れて、娘の陰部が剣心の目に入った。
赤い炎症が点々と斑紋のように浮き上がっている。
娘が耳元で熱くささやいた。
「私にそんなことしたら、あなた死ぬね。」
剣心の手が震えた。
赤い点は、巴を殺したときに雪に散った血痕のようだった。
いやだ―――拙者は―――もう誰も殺さない。殺したくない。殺せない。
剣心は娘との情事に没入した。
何も考えたくなかった。
甘い煙が部屋中に充満していた。
その次の部屋に、中国服姿のたくましい男が一人、黙然と立っていた。
「ねえちゃん・・・・・・。」
男の気迫は、部屋の中に充満し、今にも爆発しそうだった。
「ねえちゃん・・・・ねえちゃん・・・・ねえちゃん・・・・・。」
それは巴の弟の、雪代縁の成長した姿だった。
縁の握り締めた拳の上に、君の悪い神経の脈が浮かび上がってきた。
と、扉が開いて、一人の短く髪を切った背の高い中国服の男が入ってきて、雪代縁の横に立った。
男は言った。
「あれは君のお姉さんではないよ。王大人(ワンターレン)のやり方には感謝したまえ。」
「)・・・・。」
黒星は含み笑いをして言った。
「堕ちるところまで堕ちたところを、君がしとめるんだ。そうすれば、君の姉さんも喜ぶ。」
縁は壁に拳をぶちあてて言った。
「あんたには俺の気持ちはわかんねぇ・・・・・わかんねぇよ!」
「君はしかし、どちらの男を本当に恨みに思っているのかな?」
「どっちも恨みに思っているさ。」
「ふん・・・・しかし、抜刀斎という男は簡単にひっかかったな。」
「あいつはそういう奴だからよう・・・・・。」
「四乃森という男には、君はこの罠は張らないのは何故かね?」
縁は言った。
「あいつはこんな罠にはひっかからねぇよ・・・・それにあいつはねえちゃんのこと、抜刀斎に取られて恨みに思ってやがるんだ。もう一度煮え湯を飲ませてやるのさ。」
「ふん・・・君の悪知恵もなかなか働くようだ。ところで君は、姉さんとは寝ないのかな?」
縁の顔が、黒星の言葉で憎悪に引きつった。
すさまじい速さで拳が見舞うのを、間一髪で黒星はよけて拳銃を縁の頭につきつけた。
「私の早撃ちを、甘く見ないでくれたまえ。縁。」
「いつかてめぇら、ぶっ殺してやる・・・・・。」
「恩人に向かってそれはないね。君が殺す前に、君が組織に殺されているよ。縁。)も、君のことは大事に思っているから、君の姉さんを"作って"くれたんだよ。」
「あんな・・・・病気を持った・・・・姉さんなんか・・・・・。」
「そうだ。姉さんじゃないね。あれは君の姉さんなんかじゃないんだ。はははははは。はははははは。」
黒星はそう縁をいたぶるように言うと、部屋を後にした。
「ねえさん・・・・ねえさん・・・・・楽しいのかい、男に抱かれて楽しいのかい・・・・。」
縁は煩悶しながら、部屋の中でうめいた。
「でも、俺はやってやる。あいつら全員、女の前でぶっ殺してやるからな。待っててくれ、姉さん。」
縁は完全に座った目でそうつぶやいた。
別室の剣心の情事はまだ続いていた。
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