(四)
蒼紫はその夜、暖簾の店で呑んでいた。
――呑めないお酒なんか、呑んで。
巴のとがめる声が、耳朶に響いた。
蒼紫の顔に苦笑が浮かぶ。
――俺は、最低だな。
操を奪うようにして、東京につれてきた自分だったが、いざ操と顔をつきあわせてみると、巴との比較がまざまざと浮かびあがり、この少女を守るために、自分は島原にまで足を運んだのだ、と思うと蒼紫の中に苦いものがこみあげてくるのだった。
ふるさとは遠きにありて思うもの、と人は言う。
かつては自分にとって操はそうだった。
あの操のためにしてやれる事は何なのだろうと思っていた。
しかし操は―――。
あの翁が甘やかしたせいだ、とわかっている。
いや、もともとあの巴と比べることのほうが間違いなのだ。
自分が操に対して酷薄なことをしていることはわかっている。
しかし、御庭番衆に戻りたいと、まるで駄々をこねる子供のような事を言うのには、蒼紫は憤りを抑えることができなかった。
京都御庭番衆。
それは、あの頃長州の暗躍に手をこまねいて、及び腰で朝廷をさぐることばかり熱心にやっていた連中だった。
その穴の存在には、蒼紫は早くから気がついていたが、どうすることもできなかった。
巴は、そのぽっかりと開いた穴に吸い込まれたのだ。
蒼紫はその翁を観察する意味も含めて、操を預けたのだったが―――。
―――翁は、愚劣だ。
そう結論づけて、翁を処罰することにしたのだが、それは操にとっては信じられない出来事であったようだ。
―――そんな蒼紫様は嫌い、か・・・・・・。
「・・・・・宇治十帖か。」
蒼紫のぼそりと言った一言に、店のおやじがうちわで扇いでいる魚から顔をあげた。
「何か深刻そうだね、あんた。雰囲気が暗いね。」
「・・・・・・。」
「そういう時はぱーっと、女でも抱いたほうがいいよ。あ、おあいそね。へい、二十銭。」
蒼紫の杯を持つ手がびくりと震えたが、おやじは全く気にせずにほかの客の釣りを数えていた。
そこへ、なじみの様子であの男が現われた。
「なんだ。呑めるようになったのか。」
斎藤一だった。
斎藤は蒼紫の横の席に座った。
「まずそうな酒を飲んでいるな。」
「大きなお世話だ。」
「おやじ、俺にも一杯。冷やでいい。」
「まいど。」
斎藤の前にコップ酒が置かれたが、斎藤はそれを取らずに口を割った。
「荒川あたりで、また積荷があがったぞ。中は贋金でいっぱいだ。」
「それがどうした。」
「ふ・・・・おまえ、関係があるんじゃないのか。積荷は上海経由で流れてきたものだ。」
「・・・・・傀王は始末した。」
「ああ。自滅したな。大変な事件だったよ。ところで貴様にはなんで恩赦がかかったのか、俺に聞かせてくれないか。」
「知らん。おまえの調書が間違っていたのだろう。」
「・・・・ふ・・・ん。まあいい。ところで最近女を囲っているらしいな。いい趣味じゃないか。仕事も大変だろうに、その歳でよくもまあ・・・俺がおまえの歳には、まだまだ独身だった。」
「くだらん妻子の自慢話なら、聞きたくない。おやじ、勘定。」
蒼紫は立ち上がって、コートのポケットから銭を取り出して、おやじの手に渡した。
斎藤は立ち上がった。
「待てよ。貴様、警視庁から目をつけられているぞ。」
「貴様に言われなくても、わかる。」
「まあそうだな。乗鞍彦馬の奴は、片腕がきかなくなって、貴様のことを疫病神だと言っている。まあ恨んでいるよ。そんな奴が多いから気をつけるようにご忠告までだ。」
「それはいたみいる。」
「で、外務省には報告はしたのか。」
蒼紫はきついまなざしで、斎藤を振り返った。
斎藤は煙草を口にくわえて、煙を吐き出しながら言った。
「隠密御庭番衆。表向きは解散という形を取ったようだが、まだまだ悪鬼がうごめいているようだ。貴様のように。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「まあ目につく派手な奴は貴様ぐらいだがな。」
「解散した後の連中のことは知らん。」
「嘘をつけ。手駒にしているんじゃないのか。」
「貴様と俺は違うのでな。」
「どういう意味だ?ああ、沢下条のことを言っているのか。」
「瀬田宗次郎が上京してきたようだ。」
「ほう。もう知っているのか。感心だな。さすが隠密御庭番衆だ。」
「何か役立てる気だな。まあ、あの男は根が単純だから、使いやすいだろう。」
「ふん、さすが敵地で味見しただけのご意見だ。」
「邪魔だな。」
「ああ、俺はおまえの邪魔をするよ。」
蒼紫は顔をそむけると、斎藤を無視して歩き出した。
斎藤はその背に向かって言った。
「なんでおまえは奴らが気に入らないんだ。おまえも抜刀斎の首を狙っていたんだから、同じ穴のむじなじゃないか。改心して素直になったんだから、見直してやってもいいじゃないか。」
「志々雄真実の過去はどこまで洗った。」
「志々雄真実か。元長州の暗殺者。桂小五郎の下で、抜刀斎のあけた穴を埋めた男だ。用済みになって、体ごと石油をかけて燃やされた。その頃おまえは何処にいたのかな。俺は興味があるんだがな。」
「新撰組で貴様が忙しかったように、俺も忙しかった。帰るぞ。」
蒼紫はそう言うと、斎藤を後にした。
斎藤はひとりごちた。
「ふん・・・・・幕府の犬が、出世したもんだ。新撰組は、おまえらにつぶされたんだからな。」
煙草を闇にほうると、斎藤は蒼紫とは逆の方向に向かって歩き出した。
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