(三)
東京の山の手に、その女学校はあった。
洋風のミッションスクールは少人数制で、教師は宣教師のシスターであり、授業は最新の英語の授業があるというので、近くの高級住宅に住まう子女らが通っていた。いわゆる、名門校ではあるが、あの赤門ほどでは決してない。象牙の塔には到底及ばず、高給取りの親が、娘を通わせて安心できるというほどのものであった。
その放課後、御堂茜は、同級生である巻町操におそるおそる声をかけた。
操は同級生の中でも、一種独特の雰囲気を持った少女で、あまり話などもせず、いつも一点を見つめているような感じがあり、仲間のうちからは敬遠されていた。
たまにある庭球の授業では、むきになって相手に勝ちに出るところがあり、巻町さんと庭球をすると、面白くない、という陰口を叩かれていた。
また、長い髪をひっつめにして垂らしているのも、シスター達からは評判がよろしくなかった。
「切りなさい。」
と、ある日シスターが教鞭の先であごをあげさせて操に言ったところ、操は敵意のある目でシスターを無言でにらみつけた。
「あなたね・・・・まあいいわ。ここは裏長屋の所帯じゃないんですよ。皆さんと一緒に、勉学に励むための場なんです。あなた、魂だけはそれを肝に命じなさいね。」
とシスターが言って、教壇に立ったのちも、まだ操の光る視線は教師であるシスターをにらんでいた。
その操が、今席を立って、机の中の教科書を革かばんの中に入れていた。
女学生らしい袴姿であったが、色黒なので、ピンクの袴はあまり似合っていなかった。
「あの・・・・巻町さん・・・・ちょっといい?」
「何?」
操は前髪を振り払うようにして、顔をあげた。
同じクラスの御堂茜は、優等生タイプで気の弱そうな少女だ。
「あの・・・・巻町さん、あの・・・・・学校でね・・・陰で噂になってるんだけど・・・・。」
「なんなの。はっきり言って。」
「巻町さん、男の人と暮らしているんだって・・・・・噂になってるの・・・・・・・・・・・。」
操は目を見張った。
「巻町さんって、おばあさんと二人暮らしだよね・・・・確かそう聞いていたんだけど、巻町さんの家に男の人が入るのを見た人かいるの。」
「新聞の集金取りじゃないの。」
「え・・・・そうじゃないもん・・・・そんな御用聞きみたいな人じゃなかったって・・・・・親みたいな人にしては年齢が若そうで・・・・・・夕方の薄暗い時に入っていくのを見た人がいて・・・・・。」
「それが何?」
操は切りつけるように答えた。
「最低ね。人の家がどうだって関係ないじゃない。」
そして、唇の端で笑うように言った。
「あんたたち、私が男と同棲しているって言いたいんでしょう。」
「そうじゃなくて・・・・本当かなって聞いてるの・・・・・。」
「じゃあ嘘よ。私は一緒になんて暮らしてないわ。」
操はそう言うと、かばんから何かを取り出した。
「そんな奴が来ても、私は大丈夫よ。これがあるんだから。」
御堂茜は目を見張った。
操の手には一本の光る苦無が握られていた。
茜はそれが苦無とはわからなかったが、刃物だという事だけは認識できた。
茜は諭すように言った。
「巻町さん、あなたね・・・・学校に刃物を持ってきてはいけないわ・・・・・。」
操は振り払うように叫んだ。
「うるさいわね。あなた一体なに?私に何が言いたいの。私は今ひとりぼっちよ。乳母と一緒に暮らしているだけなんだからっ。」
「巻町さんっ。」
茜が手を差し伸べるのを振り切って、操は外に駆け出した。
―――私―――私、やっぱり京都に帰りたい。じいややみんなのところに帰りたい・・・・。
操は堤防のところまで来ると、苦無を川に投げようとして、思いとどまった。
蒼紫が目の開いた自分を迎えたとき、これでようやくみんなで暮らせると思った操であったが、蒼紫は翁と長談判の末、操をつれて東京に出ることに決めたのである。
操は認めたくないのだが、ついに翁とは決裂したらしい。
そして、操はよくわからないまま、下働きの女中の老婆をあてがわれて、ひっそりとしたしもた屋に今暮らしている。
蒼紫はたまにしか来ず、上京の途上がそうであったように、泊まることは決してなく、操を値踏みするようにしつけて帰る。
そこは、牢獄の家だった。
乳母は田舎から出てきた百姓女で、操と話が合わないばかりか、やはり蒼紫とそういう仲であると見て、いびるように下品な冗談を言う。
この前蒼紫の前でお茶の点前をした時は、最悪だった。
無言で蒼紫は座っているのだが、気にいらないというのは、その空気で操には伝わった。
茶器、器を型どおりに答えた後、蒼紫が言った一言の響きが、今も操の耳には残っている。
「結構な点前だった。」
飽き飽きした、という響きだった。
もちろん、蒼紫はそれだけで帰っていった。
何処に泊まっているのかは操にはわからない。
私は蒼紫に飼われている、と操は思うのだった。
愛情の一滴を与えられるまで、じっと我慢をする犬のようだ。
しかし、自分から蒼紫を求めるのは、操には到底できないのだった。
やはり男が怖いのである。
蒼紫が自分を好きなんじゃない、と思うと頭が壊れそうなぐらいになるのだが、自分から近づくことはできないのだった。
「さびしいよう・・・・・さびしいよう・・・・さびしいよう・・・・・。」
布団の中で丸くなりながら、涙を流して震えながらつぶやく操の姿を見たら、翁は何と言っただろう。
でも、一人でもう生きていかねばならない。
翁だっていずれいなくなる・・・・・・私は耐えなければいけない。
操はそう思った。
蒼紫が心を開いてくれる日まで、ただ待つだけ―――待つだけ・・・・・。
でも、そんな日は果たして来るのだろうか。
私はもう、忍びとして生きるな、と蒼紫はある日突然に言った。
「あっ、それっ・・・・。」
「全部没収だ。」
苦無の束と小刀を操から奪うようにして集めると、蒼紫は庭に置いた箱の中に乱暴に投げ捨てた。
「危険な任務には、これ以上つかなくていい。嬉しいだろう。」
「いやだ。そんなの蒼紫様じゃないよ。みんなと一緒に御庭番衆やるんだから。」
「操っ。」
蒼紫の顔が本当に怒っていた。
「遊びだと思ってるな。」
「思ってないよ、思ってないよ、そんなの。でも、蒼紫様だって忘れてる・・・・・。」
「何をだ。」
「御庭番衆だったこと。」
操の一言に蒼紫の目が暗く光った。
「なるほど。おまえにはそう見えるわけだ。」
「女学校なんて、行きたくないよ。私、御庭番衆でがんばりたい。」
「馬鹿っ。」
「馬鹿って言った・・・・蒼紫様が私のこと、馬鹿って言った・・・・・!」
操は半泣きになっていた。
あとは思い出したくなかった。
蒼紫は不機嫌な荒々しい足取りで、部屋を出て行ってしまった。
「蒼紫様・・・・・ごめんなさい・・・・でも、今の蒼紫様は嫌なの・・・・・・・・!」
操は堤防にうずくまり、膝に顔を埋めて肩を震わせて泣いていた。
「操・・・・ちゃん?」
操の背後で薫の声がした。
お気に入りの白い日傘を差して立っている。
薫は目をぱちくりさせている。
「ひょっとして、泣いてるの?」
操はあわてて、目を手で拭いて立ち上がった。
「え・・・・ええ・・・・何?薫さん。わざわざ山の手まであがってきたの?」
「うん・・・・ちょっと、相談したいことがあって・・・いいかな?学校からここまで探すのに、苦労しちゃった。」
薫はそう言うと、目をそらした操の顔をまじまじと見つめた。
「何か・・・あったの?蒼紫さんとうまく行ってないの・・・・?」
操は大きくかぶりを振った。
「ううん。学校でね、蒼紫様と同棲してる、って噂を立てられて、ちょっとショックだったんだ。」
「なんだー、もう学校って嫌よねー。私も剣心と同棲しているわよ。」
「薫さんたら・・・・・。」
操は苦笑した。
二人は堤防に横になって座った。
薫は言った。
「私はもう、学校には通えないけど・・・・・それであのね、実は剣心のことなんだけど・・・。」
「うん。」
「昔女の人がいたみたいなの。」
操は一瞬ドキリとした。
蒼紫もひょっとして、女が今いるのかも知れない、というのは、操はもちろん考えたことがあったのだ。
絶対に泊まらないのは、女がいるからだ。
その想像は、最悪のものであった。
しかし、操はつとめて明るい顔で答えた。
「剣心はほら、恵さんにもよく迫られているし・・・・そういう事あっても仕方ないんじゃないかなあ。」
「あらぁ、操ちゃん、ひどいわねぇ。私すごーくショックだったんだから。」
「それでね、もう剣心ったら、その女の人の日記をねー、私の目につくように置いていたのよ。」
「なにそれ。」
「だからぁ、男心ってやつかしら。」
「ふーん。剣心ってすけべだなあ。それでその日記は読んだの?」
「まだ半分しか読んでないんだけど・・・・というのは嘘。読んだわよー。なんか一緒に暮らしていたみたいね。ただ・・・・。」
薫はそこで遠い目をした。
「その日記ね、日付がとびまくっているのよ。最後のほうは、文字がすごく乱れていて、読みにくかったんだけど・・・・・なんか監視しているみたいな感じなの。抜刀斎と今日は大津に行った。薬の行商は何文売れた。今日は機嫌がいいらしい、とか・・・・。」
「愛がこもってないのね。」
操の一言に薫は一瞬たじろいだが、答えた。
「そうそう、そういう感じかなあ・・・・。」
「冷たい愛ね。きっと最後のほうはうまく行ってなかったんだよ。それで薫さんにきっと慰めてもらいたいから、その日記を置いたんだわ。」
「そうね・・・・きっと剣心、つらかったのね・・・・・。」
「薫さん、剣心を慰めてやりなよ。」
「うん・・・・・。」
薫は操に相談してよかった、と思った。
恵ならきっと、剣心に対していたらない自分をまた、いろいろとあげつらったことだろう。
薫は立ち上がって言った。
「じゃあ、操ちゃん、私帰るわ。」
「えっ、薫さんわざわざそれだけのために・・・・?」
「いいの。そういう操ちゃんの言葉を聞いたら、ますます剣心を支えないといけない、って思うようになったわ。」
薫は腕まくりをして見せた。
「そう。がんばってね、薫さん。」
薫が去っていく後ろ姿を見ながら、操は思った。
私はまた、あの苛烈な家に帰らなければならない。
それは、薫さんには言えない。
薫さんには・・・・・・・。
蒼紫様と私の問題なんだもの。
何よりも怖いのは、蒼紫がひどすぎる、と薫や剣心たちが乗り込んできて、蒼紫との仲を引き裂かれることであった。
また離れるのは嫌よ。絶対に嫌。
操はそう思うと、堤防沿いの石段を一気に駆け上がった。
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