(二)

その日、神谷薫は久し振りに倉の整理をしていた。
剣心はこのところ、元気だが、山懸卿の訪問を受けて、なんだかそわそわしているように、薫には見える。
――大陸かぁ・・・・。
山懸卿の相談ごとは、どうやら大陸に渡ってもらいたいという事らしいが、剣心は断っている。
薫はそれには半ばほっとしている。
また、十本刀の時のような思いはしたくはない。
剣心が出て行って、心配するのはもうごめんだわ――だって私は、剣心のこと・・・やっぱりその、大切に思っているから・・・・。
薫は自分よりもひとまわり年の離れた剣心のことを、自分の兄のように慕っているのであった。
それにしても剣心、ちょっとは手伝いなさいよ。こういう時は必ず、弥彦と二人で逃げるんだから。
そりゃ食事はたまに作ってくれるけどもね・・・ついでに私よりも上手だけどね・・・・・。
薫は後ろで娘様に縛った髪の上にかけた三角巾を、もう一度縛りなおすと、倉の奥の棚を見上げた。
――お父さんの残した本・・・・・・私には読めなかったわね・・・・。
詰まれているのは、父の残した漢籍の本であった。
と、その棚の上に、見慣れない新しい藤色の冊子がおかれているのに、薫は気づいた。
――何かしら・・・・・。
これ、埃をかぶってないわ。剣心がここに置いたのかしら・・・・。
薫は手にとってみた。古い絵草子のような表紙であり、白い付箋がしてある。「日うつり」と付箋には書かれていた。
開けてみると、日付に沿って文字が連なっていた。
「日記・・・・。」
薫はつぶやくと、ページをめくって読んだ。白い紙はところどころ黄ばんでいるが、墨蹟は今書いたように鮮やかである。
筆文字の特徴であった。薫は読みにくい崩し字を読んだ。
「縁と今日は縁日に行きました。父上の消息はやはり、見つからなくて・・・・・。女の人の文字だわ。剣心に女?ちょっと許せないわね。でも、まさか、ねぇ・・・。」
薫はそうつぶやくと、もう一度その本を見返した。
やっぱり、ここに置いたのは剣心だわ。弥彦じゃ絶対ないわ。倉の鍵はしまっておいたはずなのに、剣心が勝手に入ってここに置いたのよ。
薫は本を胸に抱くと、大きくため息をついて、倉のほこりっぽい壁にもたれた。
「剣心・・・昔のことは何も話してくれないのね・・・・・ごめんね、私にこっそり知らせるつもりだったんだよね・・・・。」
薫の胸は今動揺していないと言ったら嘘になる。
「そうだ・・・・操ちゃんに相談しようかなあ・・・・恵さんだと、ほら見たことか、って言われるし、きっと。剣心は私には過ぎた人だったんだよね・・・・・・もともとは。」
薫はそう言うと、本を持って、暗い倉の階段をきしませて下に下りた。
薫は思った。
この日記をこれから読まなくちゃ。きっと剣心の昔の女の人のことなんだわ。
でも、剣心には面と向かって言えないわ。だって、その、剣心に厳しく問い詰めたら、私はとても嫌な女になってしまう。
そう、あの恵さんみたいに・・・・・。
――あなたのそういうところが、剣さんの足をひっぱっているのよ。
薫の耳に、自信に満ちた恵の声がこだました。
いいなあ、恵さんは、容姿にも頭にも名前の通りに恵まれていて・・・・。
でも恵さんは、剣心に少し距離を置かれていること、気がついてないのよね・・・・・。
薫は倉を出ると、本を自分の鏡台の引き出しの底に隠した。
鏡に写った自分の顔は、やはり恵に比べると貧相だ。
薫は思った。
操ちゃんは今は、蒼紫さんと一緒に東京で暮らしてるのよね。
幸せいっぱいよね。でも、蒼紫さんに女学校に通わされているみたいだけど。
蒼紫さんもほとんど家にいないって聞いてるし。
だからこんなこと、操ちゃんに今相談してもなあ・・・・。
薫の意識下で、無意識での繰言は、えんえんとその日続いた。

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