屍(かばね)乱 序
雪代縁は点々と続く、赤い血の斑紋をの上を、姉の銅筒を持って歩いていた。
もうすぐ、あいつが死ぬ。
あの姉の縁者の清里を殺した男が、姉の手によって惨殺される。
―――大人たちは、自分には黙っているが、ねえちゃんが抜刀斎の嫁になる、っていうことは、つまりはそういう事じゃないか。
抜刀斎は清里を無残に殺しながら、姉の巴に手を出した。
そんな男は死ぬべきだ。縁は単純だが純粋な論理でそう思っている。
剣心の姿は吹雪でよく見えないが、今ごろあいつは姉ちゃんのあの姿を見て、どうなっているだろう。
縁は思った。俺の姉ちゃんは強いんだ、自分の抱いた女に寝返られて、あいつは今頃動揺しているに違いない。
すでに闇の武の配下の者が、あいつの手足を奪っている。
姉は勝つ―――。縁は足元の雪を踏みしめた。
姉の巴が江戸を出た時、縁は待っているように言われたが、連絡が来て、姉の獲物を運ぶように言われたのである。
それは銅筒の中に収められた、二条の槍であった。
その槍を持って、今雪原に巴が黙然と立っている。
吹雪がその周りを舞っていた。
「嘘だ。嘘だと言ってくれ・・・・。」
剣心は我が目を疑った。
闇の武の辰巳はなんとか、今退けることができた。
力技で襲ってくる辰巳に対し、龍鎚閃をかけることに成功したのだ。
剣心はその前に二人の男から攻撃を受けていて、片目が見えなくなっていた。
「ぐっ・・・・若造・・・・、まだこれで終わりだと思うな・・・・。」
辰巳はニヤリと死苦笑を浮かべながら、雪原に倒れたが、その辰巳のもらした言葉、いや今まで対峙した闇の武の者すべてが、巴は間者だと言い放ったのだ。
―――京都にて、清里明良さまが、長州の手によって倒される―――ただただ、悲しく―――。
日記からこぼれおちた、ひとひらの桜の花びらが、残酷な事実を告げていた。
あれは、春の宵だった。
俺は路地裏であの男を討った―――仲間に清里と呼ばれていた。
あの時の男が―――そんな。
巴は大きな白い布をかぶり、布の端を口にくわえて吹雪の中に立っている。
夜鷹がよくやる仕草であったが、布の下に隠されているものを思うと、剣心には悲痛な思いが走るのだった。
うつむいた巴が口を開いた。
「盟主の命により、あなたさまのお命を頂戴します・・・・。」
巴は布をばさりとひきはいだ。
下からは武装した下帯が現われた。
剣心は目を見開いた。
これが、巴の正体か―――。
剣心の声が震えた。
「巴、嘘だったのか・・・・君のすべては・・・・・・・。」
巴は静かに言の葉を継いだ。
「清里さまをあなたに奪われ、でもそれはえにしの発端・・・・・私はあなたの思っていたような女ではないのです。」
剣心は胸をついて言った。
「君はそんなことをする人ではない・・・・君はやさしい・・・・いや、戦いを嫌っていた人だ・・・・・そんなことをするのは、おかしい、巴・・・・君との暮らしで俺はそれを学んだ。巴、君を斬りたくない・・・・。」
巴は答えた。
「わたくしをお斬りになりたくない・・・・・それはたいそうな自信ですね・・・・・わたくしは今絶望の淵に立っております・・・・・これ以上、何ものにも汚されたくないのに・・・・・わたくしはそんな生き方を選んでしまった・・・・・しまったから・・・・・・。」
「巴!嘘だと言ってくれ!」
剣心は叫ぶと刀を引いた。
水眼の構えである。
巴は無言で腰に槍をひきつけ構えていた。
もしも無事帰っても、わたくしは蒼紫との仲は引き裂かれるだろう。それが忍びの世界なのだ。
蒼紫様は否定しておられるけれど、と、先代御頭の孫娘のことは、巴の心に澱となってよどんでいた。
出て行った先代御頭の息子の、武士として生きる者の娘。
何故おわかりにならない―――その娘はきっと―――。巴の頭は哀しく働く。
あなたの御頭への道を決めさせるための罠なのです。
しかし、あの方はわたくしを育てたということで、御頭として皆に認められる道を歩まれるに違いない。
それ以外のことは巴には言えない。言えようはずもない―――二人で逃げようなどと。
抜け忍は死を意味していた。蒼紫は先代御頭の技を破ることができない。
それは冷厳な事実だった。
辰巳が死んだ今、その運命は決定的となっていた。
辰巳は巴の小さな上忍への反抗に、「できるのならば、やってみよ。」と言った。―――「おまえにくの一以外の生き方などできようはずもない。苦界に落とされた身、とっくと思い知るがよい。」と言いのけた。
巴は今必死で思う。
無力―――無力では、生きてはいけない。
抜刀斎の首を討ち、生きて江戸に帰ってみせる―――それだけが、今の巴の望みである。
そのためには、どんな試練にも耐えてみせる。
剣心の顔はしばらくうつむいていたが、隙はなかった。
剣心はやがて顔をあげて言った。
「一度は契り合うた拙者とそなた、しかしそう来ると言うのならば仕方がない。」
刀を握り返すと、剣心は言った。
「・・・・情を移すと、剣先が鈍ると思うてか。」
巴の槍を持つ手が一瞬震えた。
―――蒼紫様!
巴の脳浬に蒼紫との一戦が蘇った。
蒼紫様はわたくしに勝った。でもそれは、蒼紫様を愛していたから。
わたくしはこの者を愛してはいない。
だから、わたくしは勝つ・・・勝てるはず・・・わたくしは・・・・。
巴の心に剣心との寝やの記憶が蘇った。
そんなものにどうして動揺を――と思う巴だったが、巴の心が今揺れたのは確かだった。
巴は思った。
剣心は片目に傷を負っている。それに仲間の攻撃で弱っているはず・・・・。
と、剣心の体が俊敏な速さでこちらに向かってきた。
巴は第一撃を槍で防いだ。剣心はすかさず、前に体を倒して剣を一閃に凪いだ。
巴はあやうく槍で受けた。
続けて畳み込むように斬りあった。
―――そこっ!
巴は身をひるがえし、白い首をのけぞらせて宙に舞った。
剣心の後ろから槍で串刺しにしようというのだ。
「汚い手を使うな!」
ザッ。
剣心は叫ぶと、後ろ足で巴の体を宙で蹴った。
巴は着地したが、手をついてよろけた。だが、気丈にすぐに槍を立て直した。
剣心の頭は今混乱している。
清里を討った―――あれは、幕府のただの勘定方の人間だった。
その男の女が、何故忍者にまで転身して自分を狙うのだ。
しかも自分に、婚姻の儀式までして―――その瞬間、剣心の中で感情が爆発した。
勘定方を殺したのは、自分にとってはつらかった仕事なのだ。
巴はそのつらさをわかっていると言ってくれていた。
巴だけが心の拠り所になっていた。
それが嘘か。拙者の周りはみんな、嘘だらけか。
―――君の若い力が必要なのだ。今日から君は私の抜き身だ。
と、芸妓と酒を飲む桂小五郎が言った言葉に、最初は剣心は疑いを持たなかった。
新時代を切り開くための剣を振るうのだ―――それを最初は心から理解していたが、日を追うにつれ、剣心の中でお題目になっていた。
飛天御剣流は陸の黒船、というのは比古の口癖だったが、寝込みを襲われるような日々であるのには変わりがない。
そして孤独。
重い体を引きずっているような―――剣を手について、鉛のような歩みをしているような毎日だ。
山に帰ればよかったのだ、と剣心は思うが、それは何も成さずに朽ちることを意味していた。
比古は自分に、維新で剣をふるってはならないと言う。何故だ。
拙者は比古師匠にまで試されていたのか―――そう言う時の比古の顔は、笑っていた。
まるで拙者がむきになって出て行くのを待っているかのようだった。
―――拙者は間違ってはおらぬ。
所詮、人斬り、こんなもの―――しかし、これから先もこんな事が続くのか。
巴は槍の先を目の前で交差させていた。
剣心の目が細まった。
明らかに、忍びの技―――やはりではあの、雨夜の最初の出会いから。
紫の藤の傘を持って、雨の中に静かにたたずんでいた白い人影。
雨の中にただ白梅香の香りが匂って―――。
―――本当に、血の雨を降らせるのですね、あなたは・・・・・・・。
剣心の耳に、巴の声のささやきが蘇った。
しかし今は剣を持つ手は冷酷でなければならない。
「巴、君を信じていた!」
剣心は一声叫ぶと剣をものすごい速さで巴に突き、絡めた。
巴の体が剣心と交差した時、巴の片手から何かが剣心の頬をかすめた。
黒塗りの懐刀だった。
剣心の頬の傷の上に、新たに斬られて傷がついた。
その傷は、まるで十字の形をしていた。
ゆっくりと血が剣心の頬ににじんでいく。
剣心は巴の本気を感じた。
―――抜刀斎になりきらねばならぬ・・・・・・・・・・。
剣心は巴の背後にいる者たちを激しく憎んだ。
「二刀を使うとはおろか千万・・・・その刀がその方の泣き所と思え。」
巴は槍と懐刀を両手に持って対峙している。
剣心の気配が動いた。
巴は地を蹴った。
槍が剣心の体に降った。
巴は槍をからめながら、隠した懐刀に全体重をかけて、剣心の体を押し切ろうとした。
剣心の刀が一瞬それをはじいた。
巴が予想した倍もの力だった。
巴はその瞬間、剣心に体を斬られていた。
横ざまに、すさまじい速さの剣が貫いた。
雪原に赤い花びらがぱっと飛び散った。
「・・・・・しさま・・・・・・。」
巴の唇から、その言葉がかすかに震えて漏れた。
一瞬、巴は蒼紫の笑顔の幻影を見た。
あの抱かれた時のすすきの原だった。あの燃えるような抱擁。
―――秋茜が綺麗でしたね・・・・・。
巴の頬を涙が一筋こぼれた。
敗れたと思うさまもなかった。巴の体は黒髪をふり乱し雪原に崩れた。
「巴!」
剣心は剣を置いて巴に駆け寄った。
巴は完全に事切れていた。
剣心は巴の体を抱き起こすと、その頬にすがって泣いた。
「巴・・・・巴・・・巴・・・・君もだったのか・・・・・巴・・・・・・。」
何故拙者を裏切る。何故拙者を裏切る。君だけは裏切らないでいてほしかった・・・・・。
今でも巴は、あの大津の仮の宿で、拙者とだけ暮らしているのが本当の姿だ。
それ以外の姿など、俺は決して認めぬ――――。剣心の頬に、巴に斬られた赤い傷の血筋とともに、涙が流れた。
雪原の向こうに、縁は銅筒を持って立っていた。
姉が死んだ―――姉が。
あんなに剣の練習を積んでいた姉が―――あの優しかった姉が―――。
ブツン。
縁の脳裏に何か黒いものが走った。
今出てはならない――あいつに斬られる。でもいつか強くなって・・・・・・あいつを・・・・!
「巴・・・・さあ、行こう、巴・・・・。」
剣心は巴の体をかかえて、雪原をゆっくりと歩いた。
その体の主が、本当は誰に抱かれたかったのか、彼は知る由もない。
雪原に銅筒がひとつ置き忘れられている。
剣心は気づきもしなかった。
彼の心は、今暗い空虚に満たされていた。
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