『瑞獣の城』
第一章 人質

                       (二)

「妲己、妲己。」
ある夜だった。
妲己の寝室は後宮の中でも粗末な離れに作られていて、妲己とおなじような身の上の娘がいくばくか暮らしていた。しかし、妲己はその中でも王の息子に気に入られているという噂がたっているので、仲間はずれに近い処遇を受けていた。年老いた後室の女たちの間でも、妲己はそうであった。
妲己の心の支えは、今や紂王――受子のみになっていた。
その受子とも最近は、疎通になっている。
そんな矢先、涙にくれていた妲己の枕元の木戸で作られた窓を夜半、ほとほとと叩く音がした。
紂王であった。
紂王は声をひそめて言った。
「出てきてごらんよ。妲己に見せたいものがあるんだ。」
「なに?」
妲己は起き上がり、物音をたてないように廊下をつたって、紂王の待つ中庭へ出た。
「こっちだよ。」
紂王は妲己の手を引き、中庭を横切り、後宮の裏手の小山の中に入って行った。
紂王の手には燭台のろうそくが灯っていて、二人の道行きをぼんやりと照らし出していた。
「受兄さま、妲己に見せたいものって何かしら?」
「しっ。」
二人は丘の上に出ると、山すその崖の下の小さな祠に向かった。
妲己は知らない場所であった。
「ここは・・・・。」
不安気に言う妲己に、紂王は言った。
「ここは、予の考えた摘星楼だ。」
「摘星楼?」
「うん。星の観測をする場所さ。ここは、見晴らしがいいだろう。予はここから星空をよく眺めるのだ。空には軍神の神々が星に住んでいて、予を守ってくれている。ほら、あそこ。あの一等光っているのが、予の好きな天狼星だ。夜空で一番明るいのだ。白くて、とても輝いているだろう?宝石のようだ。予はあんな星を妲己に譲りたい。」
「まあ・・・・。」
冬の夜空だった。
立っていると、冷え冷えとした冷気が体中に痛むように伝わるのだが、妲己は紂王のその言葉に胸が熱くなった。夜空は、誰のものでもない。しかし、「譲りたい」という王らしい紂王の物言いが、妲己には嬉しかったし、紂王の思いがほのぼのと暖かく思えたのだ。
紂王はしかし、そこで残念そうに言った。
「今が夏ならばな。夏ならば、そこに紅鷺星が見えるのだ。南の地平線の上に輝く。あの星も予は妲己に譲りたいと思う。それに、夏には牽牛と織女が見える。予は・・・・。」
そこで、紂王は少し恥ずかしそうにした。
「織女星も、妲己にお似合いだと思うぞ。」
「ありがとうございます。」
妲己が頭をたれると、紂王はあわてて言った。
「そんな、へりくだらなくてもいい。予と妲己の仲ではないか。いつものように、受兄さまと言ってくれ。」
「はい。」
「そうだ。予は妲己のために詩を書いたのだ。後で、読むといい。」
紂王はそう言うと、妲己の手にわら半紙の折りたたんだものをすばやく握らせた。
「今は夜だから、読むな。明日、明日だぞ。」
妲己は紂王に微笑んだ。
受兄さまは、いつも私に嫌だと思うことはしない。
そして、いつも自分を私に下げて言うようになさる。
王の息子なのに、とても奥ゆかしいのだ――受兄さまは―――。
妲己はそれが、妲己に対してだけ発揮される紂王の好意の賜物であるとは知らない。
後になって、妲己はそれで苦しむことになるのだが、この時はまだ妲己はただ、紂王の兄のような熱意に嬉しくなるばかりであった。妲己は尋ねた。
「受兄さま、さっき申された摘星楼というのは、この祠のことでしょうか?」
「う、うん、そのことか。」
妲己が尋ねると、紂王は照れたように言った。
「父上はご存知ないのだが、予がもしも位を父上から譲られることがあったなら、予は必ず王宮の中に星の世界を解明する研究所を建設するつもりなのだ。父上はそんなものには、反対すると思うがな。予は、戦争があまり好きではない。できれば戦争をせずとも、人民を平定できる方法はないものかと考えている。」
「そうでございますか。」
「また、その言い方だな。妲己、他人行儀はやめてくれないか。」
「これは失礼しました。」
「またそれだ。」
紂王はおかしそうに笑って言った。
「だがそんな妲己が予は大好きだ。」
「受兄さま、私もです。」
「だから、その時には、妲己に予のそばにいてもらいたいのだが―――。」
と、その時だった。二人の立つ丘の下に、ともし火が見えた。
女官たちが探しに来たに違いなかった。妲己の名を呼ぶ声がした。
「妲己、予がいてはそなたがまた責められる。予はこれで帰るが、いつもそなたのことを思っているからな。」
紂王はそう言うと、ザッ、と茂みの影に隠れた。
あとに取り残された妲己は、一人気丈に燭台を持って立っていた。
「妲己、何処に行っていたのですか。」
女官長とその下の者が、さっそく妲己を見つけて詰問した。
妲己は言った。
「狐がいたのです。」
「なに、狐ですって?」
「そこに二匹ばかり。追っていたらここに来てしまいました。」
「まあ、嘘をつくのもたいがいにおし。おまえがここで、誰かと会っていたのはわかっていますからね。」
女官長はがみがみと妲己にいろいろとまくしたてたが、妲己はふところに忍ばせた紂王からの手紙のことで、頭がいっぱいだった。
見つからないようにしながら、次の朝、妲己は紙を大切に広げて読んでみた。
それは漢詩だった。

『梨花帯雨争驕艶―――』

――わたくしのことを、梨花、と。
妲己は胸がいっぱいになった。
梨の花は中華でもっとも純潔可憐とされる花だ。
紂王は妲己をそれにたとえたのであり、それは精一杯の紂王の妲己を愛しく思う気持ちの表現であった。
――受兄さま・・・・受兄さまと、故郷のき州に帰れたなら、どんなにいいだろう。
妲己はそう思うのだが、それは人質の身の上では実現不可能な願いだった。
もしかしたら、紂王は今頃私と会っていたことがばれて、怒られているかも知れない。
それが妲己は悲しい。
――どんなに受兄さまのことを思っても、仕方がないのかも知れない。
と、妲己はもう気づいている。

その頃、殷王室に久しぶりに朝献に訪れた国があった。
周の姫昌、であった。




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