『瑞獣の城』
第一章 人質

                                     (一)

砂の風が、日没の荒野の上を吹き抜けていった。
何処から来て、何処へ行くのか――それは誰も知らず、誰も痕跡をたどる者はない。
朝歌の都はその残骸を日没の陽の下にさらし、かつての黄金を見る者はその胸の中にのみ、その姿を垣間見るであろう。
遠く高原の大地から都の上に砂が吹き付けてくる―――憐れむように、いつくしむように、やがて風に砂の風紋が消えていくように、地に深くうずめていく―――それは、あの紂王の、妲己へのおとないがそうであったように。

もう誰にも手渡さない・・・・・・いっそのこと、死の杯をそなたに。ともに滅び、ともに消えよ。
妲己はただ、金色の涙を流し、茫漠とした砂の嵐の中に、その姿を掻き消してゆく――――。






その日、き州候は人質として、自分の娘を殷の帝乙(紂王の父)に差し出さねばならなくなり、苦悩していた。
き州候には二人の愛娘がいた。
一人は玲瓏たる佳人に成長しそうな姉姫であり、妹の妲己はまだ可憐な幼子であった。
二人の娘の母は言った。
「この子のどちらかが、帝乙様の人質になろうとも、後室にいずれ入るのであれば、かわいそうすぎます。あなた・・・妲己はまだ幼いのです。この子は人質には。」
き州候は嘆息した。
「私には長男の蘇全忠がいる。全忠の前途に、殷に対する障害があっては困るのだ。幼いとはいえ、妲己を差し出すよりほかあるまい。上の姫は、殷に差し出すにはあまりにも惜しい。」
「そんな・・・・・!帝乙さまは、もうお歳をたいそう召されているのに・・・・こんな幼い娘を・・・・・・。」
妲己の母は人知れずに泣いた。
「母さま、母さま、一体何が悲しいの?」
幼い目をまんまるく見開き、妲己は母の顔を覗き込んだ。
妲己はすばらしい黒髪の、薄い瞳の色の美少女で、その大きな瞳が印象的な娘であったが、残念なことに姉姫ほどの度量はなく、何かに押し流されていくところのあるような、おおどかなところのある姫であった。
「妲己はこれから旅行に行くのですね。」
「ええ、そうですよ。旅行に・・・・・。」
馬車に一人で乗せられ上機嫌な妲己の姿に、母は声を詰まらせた。
人質の何たるかを、妲己はまだ知らない。
「では、父上、母上、妲己は行ってまいります。おみやげには何がいいでしょうか?」
妲己の問いに父と母は答えなかった。
従者は馬に鞭を当て、馬車は動き出した。
「妲己、妲己、元気でいるのですよ。いつか・・・・母の元に帰ってきて・・・・・・!」
妲己の母は、馬車に追いすがるように、駆けてそう言ったが、妲己の耳にそれは馬車の音にかき消されて届くことはなかった。
最初は上機嫌で歌を歌っていた妲己であったが、馬車が何日も旅を続け、何処か知らない土地に向かって行くのだとわかると、やがて不安で泣き崩れるようになっていった。
「父上・・・・母上・・・・・妲己は何処に行くのでしょう・・・・・おつきの者も何も答えてくれません・・・・・。」
野営の陣で、妲己は一人泣いていた。
と、その時何か夜の影に動いた気がした。
なんだろう・・・・大きなもの・・・・・・。
―――泣かないで・・・・ずっと君のそばにいてあげるから・・・・・・。
妲己は少し安心して、あどけない顔で眠りについた。
それは妲己のみが感じた、何かの気配であり、誰も知る由もない何者かであった。

やがて、馬車の一群は、朝歌の都に着いた。
まず馬車から降りた妲己は、あたりの壮麗な感じに目を見張った。
ここは一体何処だろう・・・・御伽噺にある、天の都だろうか・・・・・・。
妲己はまず、王宮の控えの間に通された。
帝乙が検分に訪れるはずの、その短い時間に「彼」は現われた。
少年―――すばしっこそうな一人の少年が、妲己の前に現われた。
「あなたは?」
目を見張った妲己に、少年は答えた。
「その方は、胡人だな。天狼星の方角から来たのか?ずっと砂漠を旅してきたのか?」
妲己が目をぱちくりさせていると、二人の後ろに背の高い男が立った。
「受子(紂王の幼名)さま、その者は胡人などではありません。みだりに人質に話しかけるのは、おやめになられた方がよろしいかと。」
「そう申すな、聞仲。予はこの者と話がしてみたいのだ。旅をしてきた者は、この王宮の中で鳥かごのように閉じ込められている予では知らぬことも、たくさん知っているに違いない。」
「受子さま!さああちらへまいりましょう。」
妲己が見ているうちに、受子と呼ばれたその少年は、聞仲にひきずられて、廊下に出された。
「その方の名は何と申すのか?」
まだ聞仲に抵抗を続けている、受子が妲己に向かって叫んでいる。
妲己はおそるおそる少年に答えた。
「妲己・・・・。」
「そうか。その方は胡人の娘だから、公主と名乗るがいいぞ!」
妲己はなんだか、それを聞いて安心した。
受子と呼ばれたその少年は、黒髪で黒目の少年だったが、年恰好は妲己と同じぐらいであり、妲己の目には何だか親しみを持って写ったのであった。
おもしろい人・・・・・この王宮の人なのかしら・・・・・。
だから、妲己はそれからずいぶんたった後ほどこの少年が、帝乙の息子であると知ったとき、たいそう驚くと同時に、受子に対して哀憐の情がわきあがってくるのを抑えられなかった。
妲己の前に立った帝乙は、威厳のある沈うつな人物で、無言で妲己を頭からつま先まで眺め回すと、「後室につれていけ」とだけ命令した。
後にこの歳をとった中年の男が、自分にとってどのような男であるのかを知った時―――妲己の心はひび割れてしまった。

では私は、この人の妾になるために―――。

帝乙は殷の支配者であり、皇帝を名乗るようになった最初の王であり、その王権は絶対であった。
妲己はその帝乙へのご機嫌伺いのために差し出された人質であったのだ。
しかししばらくの間は、妲己は人質として後宮にとめおかれるだけの身であった。
しかも、帝乙は妲己のもとへしばしば通って遊んでいる我が息子の受子の行動を、しばらくは静観していたのである。
子供同士で遊んでいるその姿は、王宮の中に突然できた陽だまりのようだった。
「妲己、予とそなたはこれから兄妹になろう。だって、親もいないんだろう。予の母上も死んでおらぬ。その方と予は、これからは兄弟だよ。」
「妲己・・・・・そんなの恥ずかしいわ。だって受兄さまは、大切な王太子ですもの。わらわのような後室の者と、そんなことをしてはいけないと思うの。」
妲己は使いにくそうに、「わらわ」という、後室の女たちの一人称を使ってみた。
「受兄さまは、これからお后さまをどこかからお迎えになるから、わらわのことは、きっと余計な者になってしまいます。わらわは遠くから受兄さまを応援しているわ。」
「そんなの、ダメだよ。妲己はただの予の周りの者じゃないんだから。予にとっては、妲己だけが一番大切なんだよ。」
妲己は受子の言葉に真っ赤になった。
とてもうれしい―――だけど、自分の立場では、断らないといけないというのが、おぼろげに妲己にはわかっている。
「受兄さま、もう帰って。後宮の女官たちに見つかったら、またしかられてしまいます。」
「妲己!」
妲己は息をはずませて、急いで部屋の扉を閉めた。
―――受兄さま・・・・・一番大好き・・・・・でも、お父さまに見つかったら、きっとまたしかられてしまいます・・・・。
妲己が胸の鼓動を沈めていると、後ろに背の高い、目つきの鋭い女官が一人立った。
妲己の「付き人」である。
「妲己や、またひきこんだね!人質らしくしなさい!」
妲己の頬に女官の張り手が走った。
「あ・・・・ごめんなさい・・・・・妲己、少し、寂しかったの・・・・・・。」
妲己ははずみで床に倒れこんで、乱れた黒髪の下で、女官に打たれた頬を押さえた。
涙がぽろぽろとその頬にこぼれている。
「まったく・・・・!き州の女は魔性の女が多いっていうけど、おまえもそうだよ。王の息子にちょっかいを出すんじゃないよ。おまえは大切な儀式の生贄なんだからね。」
「はい・・・・・ごめんなさい・・・・妲己はもう悪いことはしません・・・・。」
妲己は女官が部屋から出ると、窓のそばにより、格子に手をかけて、震える瞳で外を見た。
―――わらわは籠の鳥・・・・・ここから出ることもできないのね・・・・・・。
妲己と紂王のその年は、そのようにして暮れていった――――。



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