最終章・九ノ一
巴は今、旅の途上にあった。
江戸から京へ―――かつて清里も通った道のりを、今はこうして身をやつした御庭番衆とともに杖をついて歩いている。
護衛をするのは、西の闇の武の連中であった。
――私は・・・・できなかった・・・・。
巴はともすればくじけそうになる心持ちを、泣きたい気持ちをこらえていた。
蒼紫とともに山里で修行したことは、すべて無に帰した。
その日、上役に呼ばれて巴は、忍びの女たちを相手に立ち回りを何度かしてみせた。
はじめは意気もあがり、巴の槍は何人かの華やかな忍びの女たちをねじふせることができたのだった。
「だが、抜刀斎ではどうかな。」
上役はこう言い、やがて屈強な男どもと試合をいなければならなくなった時、巴は己れの甘さを思い知った。
だが、それでも必死で槍を構える巴の前に、何人かの忍びはその技を破られた。
それは、上役も目を丸くして見ていたはずである。
だがしかし―――。
「江戸城付けの御庭番衆自らが、仕込んだ女だ。その御頭相手に勝てなければ、女ごときに暗殺など、できないも同然だな。」
それは、教え主である蒼紫と対決をしろという言外の意味であった。
蒼紫は黙然と巴の前に立っている。
隙は、ない。
こちらから仕掛けるまで、水の面のように何もしないつもりだ。
巴は槍を後ろ手に回して静かにかまえた。
「エイッ。」
巴は分かれた槍の真ん中の部分を、自らの体にからめるようにしながら、刃を蒼紫に向けた。
一撃で倒すかまえである。
蒼紫は―――小太刀を旋回させ、巴の刃をはじくと、下から十字に構えた小太刀を巴の喉元に突きつけた。
それは一瞬の出来事だった。
巴は槍の胴であやうくはじいたが、槍をあやつる動作が乱れた。
「ああっ。」
その隙を蒼紫は見逃さなかった。
間隙に蒼紫の小太刀がひらめいた。
「勝負あったな。」
上役は立ち上がった。
巴の固まった姿勢の前に、蒼紫の小太刀が巴の頭に対して突きつけられていた。
上役の武士は言った。
「抜刀斎相手には、その女の技は児戯に等しいであろう。それでも、返り討ちにやすやすと合うような隙はその女にはなくなった。気配を殺せるし、簡単に背中から斬られるような事態にはまずなるまい。ご苦労であったな、江戸城御庭番衆・四乃森蒼紫。」
蒼紫は平伏して聞いている。
無論好んでそうしているわけではない。
そうしなければ、己れの首が飛ぶのだ。
巴も平伏して聞いている。
「その女は、よい九ノ一になり申そう。そちらの仕込みも万全というわけだ。役得ではあったな。これにて重畳。」
巴ははっ、となった。
それでは私は―――この為に?
最初から九ノ一になるために。
敵の女になるために。
この人は私を抱いた。
嘘です、嘘だと言ってください、蒼紫様。
巴は横の蒼紫を盗み見た。
蒼紫は厳しい面持ちで下を向いている。
巴は思った。
蒼紫はでも―――私に負けを譲ることはしなかった。
この人はそういう時でも、私情で負けを譲ることなぞ決してしないのだ。
巴はしかし、心中でこう叫ぶのを止められなかった。
―――でも私は抜刀斎に斬られてもよかったのに―――九ノ一になぞ、なるのは嫌。嫌です。何故―――。
「そうです、私は抜刀斎にこの技で負けてもよかった。斬られてもよかったのです。清里同様に。その方がきっと清里も喜ぶかも知れません。」
蒼紫は黙って川の流れを見つめている。
もう夕暮れで、蒼紫と巴はさっきの江戸城の道場から、出た少しばかりの往来で話している。
「私・・・私・・・・九ノ一になぞ、なるのは嫌です。そのつもりであなた様に鍛えられていると思っておりました。でも、違ったのですね。すべては私の思い過ごしでした・・・・・・。」
蒼紫はぼそりと言った。
「俺にはあなたは過ぎた女だった。」
「過ぎた女?」
「抜刀斎という男は、俺以上のてだれということだ。さっきの上役の態度でわかっただろう。俺では抜刀斎には勝てないと踏んでいるし、まだまだ江戸城を守る仕事があるから、手放すわけにはいかないという事なのだ。」
巴は言った。
「私・・・・抜刀斎を斬ることはできないと思います。九ノ一として、情を捧げた後に斬るなんて、きっと私にはできない。」
「巴。」
「ですからあなた様のことも、私にとっては同じなのです。あなた様と情を交わしたのに、どうして私が勝つことができましょう。」
巴の頬に涙が一筋、音もなくこぼれた。
「女とは寂しいものですね。私がこのような女だからかも知れませんが。」
蒼紫は巴の身をそっと抱き寄せた。
「巴、身についた技はきっとお前を助ける日が来る。必ず。俺はそう固く信じている。」
「はい。」
蒼紫はきっとそう言うと思った言葉を、巴に言った。
ああやはりこの人は―――私の思ったとおりの方なのだ。
巴の寂しい心に、ほのぼのとした安堵感が静かにひろがった。
何も生まないと思って、私に剣の鍛錬をしていた訳ではなかったのだ。
私が私自身を守るために、必要な手助けを蒼紫はしてくれていたのだ。
巴はその時、心に浮かんだことを不意に蒼紫に尋ねてみたくなった。
「あなた様には、既に言い交わした娘がいらっしゃるそうですね。―――操という少女が。」
「言い交わしてなどいない。」
「嘘です。般若殿が私にそう言いました。」
「では般若が間違えたのだ。俺は―――巻町家の者にとっては、厄介者だ。近寄ることすら許されてはいない。」
巴は大きく目を見張った。
今の蒼紫の言い方は―――まるで――――。
蒼紫は自分に言い聞かせるように、言葉を続けた。
「まだ操は幼い少女だ。どうなるものでもあるまい。操の父の巻町玄播は、御庭番衆として生きる事を拒否した。だから、操も九ノ一になることはない。その方が操のためだ。その操にどうして俺が思いなぞかける。それもあなたにとっては、どうでもいいことだな。」
巴は胸の動悸を鎮めるように、必死で落ち着こうとしていた。
言ってはならないという言葉を、自分は蒼紫に言おうとしている。
巴は声喉に張り付いたようになって、言葉を吐いた。
「まだ・・・・・幼いから・・・・少女だから・・・・思いをかけないのですか。」
「―――!」
「私は・・・・・九ノ一になる女だから・・・・・成人した女性だから、お抱きになられたのですか。いえ、そうなのですね。」
「違う。」
「違いませぬ。あなたは私を抱いたけど、その時何も言わなかった。好いているとはおっしゃられたけれど、私の向こうに何か別のものを探し求めておられるようにずっと感じておりました。私では決して手の届かない別のもの―――。」
「そう感じたのなら、きっと俺はあなたに自分の死んだ母親を重ねて見ていたのだ。」
巴は耳を押さえ、激しくかぶりを振った。
激情が走り、言葉が止まらなかった。
「いいえ!!違います。その操という娘の身代わりなのですよ、私は・・・・どうして気がつかなかったんでしょう。いい気になって、のぼせ上がって・・・・・私・・・・私・・・・・・。」
巴は哂いながら、言った。
「あなた自身も気がついておられない。私は絶望しております。それでも私はあなた様のために、抜刀斎に九ノ一の法を仕掛けます。私にとっても、抜刀斎はあなた様の身代わりでしかないのですから!」
巴はそう叫ぶように言うと、手で顔をおおって、その場を走り去った。
蒼紫は追ってこなかった。
蒼紫とはそれきりになってしまった。
―――でも私は間違ったことを言っていた訳ではなかった・・・・・・。
巴は旅先の宿で思う。
あの人は、本当はその操という少女と、あの山里で二人きりで暮らしたかったのだ。
その少女を思うさまに鍛え、自分の手の中の玉のように慈しみ、育てていきたかったのだ。
それでも今でも蒼紫は、自分を愛していたのだから、と胸を少しは痛めてくれているのかも知れない。
それは嬉しい―――けれども、哀しい。
いつかはあの人も、自分のその感情に気づけばいい―――私が清里を愛していなかったことに気づいてしまったように。
だからもうあなた、私がたとえ死んでも、泣くことはないのですよ―――。
月の裏側の顔を、私は見てしまった・・・・・。
月の影、蒼紫様、あなた様の心の影を。
見てはならない禁断の顔を覗いてしまった。
これはその罰なのかも知れない―――私は近づいてはならない人に近づいてしまったのだ。
あなた様に近づく女人は、これからもそうしたひやりとするような思いを、きっと味わうのでしょうね・・・・。
巴の哀しげな頬に冴え冴えとした、冬の月が照り映えていた。
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