5 夕凪
おだやかな、風の凪ぐ夕暮れ。
山肌に広がるすすきの原に、巴は一人立っていた。
彼が来るのを待っている――― 一人、いつまでも待つつもりで――――。
「ずっとそうしていたのか。」
背後から声がかかると、巴は笑顔で振り向いた。
「ええ。こうして下界を見ていると、不思議な気持ちになります・・・徳川の世も、維新の風も、まるで別の世のことのよう・・・・・。」
沸き立つように広がる雲海が、巴の眼前には広がっている。
そこへ―――この人と二人きりで、入っていってしまいたい。
何もない、苦しみもない、天上の世界。
もしあるとしたら―――それが感傷にすぎないのはわかっている。
「私・・・・・あなたとずっと・・・・こうしていれば・・・・・・・・いいんです・・・・・・それだけ・・・・それだけなのに・・・・・・・。」
巴の声は、震えかすれた。目に涙が浮かんでいた。
蒼紫は答えずに、巴に体に腕を回した。
震えている体に、安堵感が広がる。
夕闇の黄昏の黄金が、二人を光の中に包んでいた。
今だけ。今この瞬間だけ。
巴は、涙の浮かぶ瞳をそっと閉じてみた。
蒼紫の息が、頬にかかった。
そっと、近づくように―――蒼紫の唇が、自分の唇に重なるのがわかった。
甘い、ほのかな香りを蒼紫は巴にかいだ。
蒼紫は注意深く、唇を巴から離した。
ぎこちない間が、二人の間にはある。
接吻は触れるだけの軽いものだった。
それ以上触れてはならないと、蒼紫は自戒したのだった。
しかし―――。
巴の綺羅と輝く瞳が、目の前にある。
巴はさやかに笑った。
「あなたさまは・・・・・おやさしいのですね。」
蒼紫は無言だった。
胸中の思いを言い当てられたような気がした。
巴は言った。
「私は・・・・・・・これから、長州の慰み者になるのかも知れません。そうなったら・・・・・でも・・・・・あなたはきっと・・・・そんな女とは・・・・・・。」
「巴―――。」
と、巴は蒼紫の顔を振り仰ぎ、急に言い募った。
「生きたいのです。戦国の世でそうであったように、ここで、あなたさまと忍びとして―――できないことはわかっています。でも、時が今止まったら―――昔の世に戻れたら―――私が清里の許婚ではなかったら――――。」
「巴・・・・・!」
「私・・・私・・・・・あなたと時を止めて・・・・・一緒に生きたい・・・・・!」
巴はそう叫ぶように言うと、蒼紫の体に抱きついた。
自分でも何故そんなに大胆になれたかわからない。
ただ、この荘厳な山々の景色に包まれた時、自分がどれほど小さな存在か、そして、下界の営みというものが、いかに塵芥に汚れたものかと巴には思われ、それに流されていく自分が怖かったのかも知れなかった。
――だからどうぞ、しっかりと私を抱いていてほしい・・・・・・・あなたさまに、今―――。
蒼紫は巴の顔をもう一度、上に向けさせた。
「いいんだな。」
蒼紫は静かに巴に言った。
それがどういう意味であるか、生娘ではない巴にはわかっていたが、それでも、清里とは間違いといったいきさつでそういう関係になった身であるから、どういうことになるかはわかっていなかった。
清里のように、性急に手を伸ばしてくるのだろうか―――。
それともいつかの晩のように、お酒の力を借りた時のように、うやむやに―――。
蒼紫はまず、巴の着物の裾を割った。
しかし、その動作はゆっくりとしたものだった。
念入りと言ったほうがいいかも知れない。
ゆっくりと下から手を差し入れて、やがて胸にいたり襟をはずしたとき、巴の肌は山すそを照らす夕闇の光にあらわになった。
「・・・・綺麗だ・・・・・。」
蒼紫の低い耳元の声に、巴は頬をさっと赤らめた。
そのまま草むらの上に、ゆっくりと蒼紫の手によって横たえられた。
今の徳川の世というよりも、二百年も前の時代にさかのぼるような、二人の姿だった。
そして蒼紫によって、かすかな局部の痛みがもたらされたとき、巴の胸にあったのは、そのような時代に逆行できたならということだけだった。
時が―――時が、今の世でさえなければ・・・・・・。
蒼紫の動きは最初は巴の身を案じたもので、穏やかなものであったが、やがて熱が高まるにつれ、荒々しいものになった。
山の稜線が赤く染まる中、誰も見ていない草むらの原で、蒼紫は一頭の獣になっていた。
好き―――このあいまいな言葉、それだけが私とあなたのただひとつの支え―――巴の頬に静かに涙が流れていく。
誰も認めなくてもいい、ただあなたとこうしていたい―――。
やがて風が吹き始めた時―――。
「戻ろう。」
蒼紫が言ったので、巴は立ち上がった。
今一瞬で山の端に陽は沈んでしまった。
夢のようにそのひと時が過ぎてしまった後も、巴はひたむきに思った。
決して、今のこのひと時を私は忘れはしません・・・・・・・。
巴はそっと蒼紫に尋ねるように言った。
「あなたさまが、私の忍びの才能を愛しているだけなのはわかっています。」
蒼紫はとがめるように答えた。
「そう思っていたのか。」
「ちがいますか。」
蒼紫は巴の肩を抱きよせ、不器用に答えた。
「馬鹿だな。」
巴の肩が震えた。
「でも・・・・私・・・・ずっと・・・・・そう思って・・・・・・。」
あとは声にならなかった。
ただ―――蒼紫の優しさが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「俺はおまえを愛している。それはおまえが、おまえだからだ。他の言い方を俺は知らん。」
「はい。」
巴はただ、蒼紫にうなずいて――――。
「はい。」
暮れなずむ黄昏の黄金が、尾を引いて、二人の姿をただ闇の中で金色に照らしていた―――。
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