3 早春賦
まだ巴がこの忍びの里に来た頃のことだ。
巴は清里の復讐を胸に最初、来たのではなかった。
そんなだいそれたことなど、はじめからできようはずもない。
巴は江戸で清里の消息を尋ねまわっているうちに、そういう者らの集会に参加したのだった。
長州を討つべしと意気込んで気勢をあげる若者や武士であふれかえっていた、その講の場所に、どうして巴は居たのかは自分でもわからない。
清里は巴の体を通り過ぎて行った男であり、残したものはかんざしひとつばかりで、巴もその寂しさにはもう慣れていたはずだったのに、そのような狂気の熱気が渦巻く場所をその日どうして選んだのか―――。
やはり私は、清里の仇が討ちたいと思っているらしい―――奉行所で伝えられた、緋村抜刀斎という長州藩の下手人の男を、この手で―――。
そのようなことはできようはずもないのに、気がつくと巴はその中庭の場所にいた。
人々が嵐のように去った後の集会所で、巴は一人つくねんと立っていた。
帰ろう、縁がおばさんと家で待っているわ――と、指先で惑う心を振り払ったその時だった。
その後ろに「彼」は不吉な鳥の影のように現われた。
「清里明良の仇を討ちたいのだろう?」
巴は振り返り、「彼」を見た。
もう夕闇で、黒いシルエットになっていて、その表情はわからない。
濃い藍色の装束を身につけた、背の高い男だった。
わからないが、その者の燃えるような視線を感じた。
瞳の中に真紅の不吉な火が灯っている。
「いいえ。」
と巴は口の中でかすかに打ち消して答えたつもりだった。
額に冷や汗が浮かんでくるが、そのじっと見ている目から逃れられない。
何故この人は、全然知らない私の婚約者の名前を知っているのだろう、と巴は思った。
空と大地がずれたような、日常に異次元が忍び込んだような感覚だった。
すべてが不安定な夕闇のとばりの中に、沈んでいくようだった。
その者が、地を這うような声で、巴に向かって低くささやいた。
「来い。必ず仇を討たせてやる。」
巴は引きずられるように、その者にゆっくりと近づき、その者の腕の中で気を失った。
もしも巴の意識があったならば、その後の忍びの者らのセリフも聞き取れて、蒼紫に対する印象も変わったかも知れない。
「何故もっと早く影うつしの術を施さなかったのだ。これでは、周囲に人がいないから、丸見えだぞ。」
蒼紫の後ろに、腕組みをして立っている老人が言った。
「おまえが躊躇する気持ちはわかるが、こういった立場の娘はそうそういるものではない。利用できるものは、何でも利用するということだ。」
「・・・・・・はい。」
「その女を踏み台にして、更なる高みへと昇り詰めるのだ。上の者だけではなく、女どものおまえへの評価も、それによって変わってこよう。」
蒼紫の静まった瞳の中で、何かが揺れたようだった。
―――母上に似ている。
腕の中の白い花びらのような娘のおもざしは、死んだ母とは似てもにつかないものだった。
母と同じ武家の娘だから、そう思うのか―――蒼紫はそう思ったが、自分の胸を射抜くように見舞ったその思いを払いのけることはできなかった。
巴がそれから気がついたのは、山里の東屋で寝かされていたときだった。
「ここは・・・・。」
起き上がった巴の向こうに、蒼紫の後ろ姿があった。
巴はおそるおそる蒼紫に近づいた。
帰してください、とその背中に言おうと思ったのに、先に蒼紫が口を開いた。
「おまえは今日からここで、忍びの稽古をすることになる。拒否すれば命はないものと思え。」
「忍び―――何故私が。」
「おまえにならできるはずだ。俺が鍛える。」
あ、と巴が思う間もなく、蒼紫は戸を閉めて出て行った。
巴は震え上がって、しばらく泣いていたが、やがてそれをあきらめた。
生きたいと思った。
そして逃げようとは思わなかった。
忍び―――私にできるのだろうか。
しかし清里が死んでから、ぽっかりと開いていた空洞を、蒼紫の一言で埋められたような気がした。
それは蒼紫がかけた術のせいだったのかも知れないが、巴は自分をさらった蒼紫に、一目で恋をしたのだった。
蒼紫もまた、巴を見る目に哀れなものを、日々につれ感じるようになっていった。
修練を積むうちに、互いの胸の寂しさのようなものを感じて、身を寄せ合うようになったのは、自然のことだった。
きっと、私は生きてまたあなた様に会います―――巴は、上の者に言われた言葉を素直に信じて、今はその技を磨いている。
一度迷ったら、相手を傷つけることをためらう、繊細な心を持ち合わせているのに、その心を抑えて刃を身に帯びることを由としている。
それもすべては蒼紫のため―――もはや、清里の存在は巴にとっては遠く、かすんで見えないものになっていた。
ふと弟の縁のことが思い出されることはあったが、縁は江戸の町で普通に姉の帰りを待っている、巴は清里の仇を討つための旅に出たと言い含めてあると言われ、山里から出ることは許されない身、巴はただ剣の修練を積む毎日であった。
その無心の少女を、俺は―――。
蒼紫の心に、ひび割れたように、先代御頭の言葉が突き刺さっていく。
「早く情をつけてしまうのだ。敵方に寝返らないようにするのも、御頭の重要な仕事だぞ。」
蒼紫は茶室で、先代の言葉を、頭を下げて聞いていた。
蒼紫の表情は硬かったが、その内部では巴に対する激情がほとばしっていた。
これは任務ではない、自分にとってはもはや任務ではないのだ、と今にも先代を一刀のもとに斬り捨てようほどの思いに、蒼紫は理性でじっと耐えていた。
自分は今御頭をやめるわけにはいかない――そんなことをすれば、あの巴は幾重もの忍びの掟で、山の中で何本もの刀で串刺しにされてしまうだろう。
巴を今の自分では守りきれない―――回転剣舞も完成させていない今の身の上で、造反はもってのほかだ。
しかしそう考えると、自分はただ巴の体を目当てに忍びの世界に落とし込んだ、薄汚い存在に思えてくるのだった。
「どうなされたのです。」
その日、巴は夜もふけた頃、戸口に荒々しい音を聞いた。
巴一人で寝ている番舎は、小さな小屋だった。
だが、蒼紫のほか数名の限られた忍者しか、そこには訪れてはならないことになっている。
いずれ長州にわたる大切な駒なのだから―――というのが、この忍びの里での巴についての風評であった。
巴はろうそくに火を点し、戸口に立って驚いた。
「蒼紫さま!」
蒼紫が倒れるようにそこにうずくまっていた。
肩で息をついている。
ふっ、と酒の香りがした。
巴は蒼紫のそばにより、介抱するように肩を抱いた。
「呑めないお酒など呑んで・・・・あなたさまらしくもない・・・・・。」
「知っているのか。」
「はい。般若さまから聞きました。いま水を持ってまいります。」
その行こうとする巴の手首を簡単にひねると、蒼紫は巴を土間に押し倒した。
「何をなさいます!」
しばらく巴は蒼紫の下でもがいていたが、やがて観念したように動かなくなった。
巴は乱れた髪の下から言った。
「こんなあなたさまは、嫌でございます・・・・・・。」
蒼紫は少し片頬で笑って、巴に言った。
「俺が隠密御庭番衆の御頭だから、俺の口づけからも逃げなかった・・・・・おまえもそうだな・・・そういう女はたくさんいる・・・・・。」
「ではそういう方にしてあげてください。私は・・・・。」
と、巴の顔の上にぱたぱたと白いものが落ちた。
蒼紫の涙だった。
巴は目を見張った。
この強い人が泣くなんて―――!
蒼紫は苦いものを吐き出すように言った。
「俺は弱い男なんだ・・・・・忍びの掟からは逃れられんのだ・・・・もしおまえを自由に・・・・・そう・・・・できたなら・・・・・。」
蒼紫がひしと荒々しく自分に抱きついてきたのを、巴は息がつまるように受け止めた。
その夜、巴は蒼紫のものになった。
かわいそうなあなた・・・・・・・・・・私は最初からそれでもよかったのに・・・・・・・・。
蒼紫が自分を忍びの女としてかわいがるのだろう、という事は、周囲の言葉に黙って耳をたてていれば、実は巴にでもわかっていたことであった。
しかし、その感情が行き着く先を、巴はまだ知らない。
巴の胸のなだらかな双丘の上に、蒼紫の腕があった。
巴は起き上がって、眠る蒼紫の頬に軽く口付けた。
私はきっとまた、あなた様に生きて会います・・・・だからもうあなた、私のことで泣かないで・・・・・・。
春の早い夜、まだ恋人たちを引き裂く悲劇の訪れを二人は知らない。
巴は素肌のまま、夜空を見上げて思った。
冴え冴えとした満月が、雲間に浮かんでいる。
綺麗な月・・・・・きっと私たち二人の今夜の夜を、祝福してくれているのね――――。
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