1 春の宵
「蒼紫・・・・・。」
そっと、夜影に白い指先を伸ばした。その触れたあたり。
巴の手は、今、蒼紫のたくましい腕の中に包まれている。
陽に焼けた蒼紫の腕と、ほの白い巴の手の対比が、黒白のようにくっきりと闇の中で際立っていた。
春の宵は、短い。
その短い逢瀬に、巴は胸を燃え立たせていた。
―――私に、忍びの術ではなく、これを使えと―――。
これ。
それは、蒼紫との逢瀬でも使われるものであり、巴にとっては悦びであると同時に悲しみでもあるものであった。
―――なぜ、引き寄せられるのか――――この人に。
蒼紫は冷たい―――本当の気持ちをなかなか言葉にしてくれない。
黒髪を乱れさせて、巴は蒼紫に抱かれながら、いろいろな事を考える。
『御頭には、決められたお相手がいるんだ。』
巴に確か、唐突に怒ったように言った、般若の面の男の言葉を思い出した。
般若の言う「決められたお相手」とは、最初巴は、江戸城の中にいる高貴な姫であるかと思っていた。
彼らは江戸城の御庭番衆なのだ。
巴のように、復讐を胸にこの忍びの世界に入ってきたものではない。
あとで、べしみをつかまえて、尋ねてみたところ、どうも先代御頭の孫娘という少女がいるらしい。
まだ五歳だそうだ。
巴はクスリ、と忍び笑いをもらした。
そんな子供が―――蒼紫は少しでも好きなのだろうか。
先代御頭の跡目を継ぐということで、その孫娘を将来もらいうけるのだろうか。
だが、まだ見ぬその娘と、収まった将来の蒼紫の姿を考えると、巴の胸はきりきりと痛むのだった。
相手の娘は、般若の話ぶりからすれば、先代の後継者という正等な血筋を引いているだけあって、蒼紫を手下か部下のように扱うかも知れない。
そしてその時、蒼紫はきっともう、年老いている。
今の、私だけが知っている、年若く俊敏なこの人ではない―――、年老いて、寂しく―――ああ、将来―――。
将来―――その言葉を、巴はめまいがするように思うのだった。
あの緋村抜刀斎を葬らねば、自分と蒼紫には明日という日はないのだ。
いいえ、私は最初から明日という日など望んではいない―――。
もう止まらない―――この思いは。
巴は小さく肩をゆすって、藍色の忍び装束を肩から床に落とした。
清里に対しては、自分からなど絶対に誘わなかったものを―――巴は蒼紫の忍び装束の下に手をすべらせた。
痩せているのに、ごつごつと手に盛り上がった筋肉があたる。
蒼紫の短く切った髪にそっとその手を移動させる。
「昼間・・・・。」
蒼紫がつぶやくように言った。
巴は目を丸くして、答えた。
「昼間?」
「・・・・・何を探していたのだ。水の中で。」
「わかりませんか。」
巴は秘密にするつもりで、そっと白い歯を見せて笑った。
―――あなたの姿がまぶしくて、気がついていたら泳いでいました。
巴は川沿いの岩の上で、鳥寄せの笛を吹いていた。
その笛の音にひかれて集まってきたのは、小鳥たちだけではなかった。
茂みに蒼紫の影を認めたとき、自分も小鳥のように飛び立ってしまいたくなった。
―――わたしは、あなたが好き!
声に出して言ってしまうのが恥ずかしくて、忍び装束のまま、川の中に飛び込んだ。
水は冷たかったが、巴は軽々と抜き手をきって泳いだ。
蒼紫が、見ている。
それが嬉しかった。
最初に会った時から、牽かれていた。
この方と一緒に修行をする―――最初は清里の復讐のために、身を投じた巴だったのに、蒼紫のもとで忍びの練習をつむうちに、自然と恋心は芽生えていった。
蒼紫も巴も、よけいなことは口にしない方だ。
そんなところも手伝って、巴はなかなか口にこそできないものの、蒼紫への想いを募らせた。
―――好きなのに。私は、清里よりも、この方が好きなのに。
そう思ってはいけないと思えば思うほど、蒼紫を慕う気持ちは巴の中で強くなった。
ある日、巴が見事に忍びの高度な術を決められたときの事だ。
「できました、できました、蒼紫様。」
頬を紅潮させた巴は、気がつくと蒼紫に飛びついていた。
「私、きっと京都で仇が討てますね、そうですね。」
蒼紫は「ああ」と言ったようだった。
蒼紫の腕が、とまどったように、巴を抱こうとして、また下におろされた。
しかし、巴は気がついてしまった。
蒼紫が自分を抱きしめようとしたことを。
蒼紫は黙って立ち去ろうとしていた。
「待ってください・・・・・!」
巴は追いすがるように、震える声をふりしぼった。
切ない瞳は、愛しい人の姿を見つめていた。
「私のことが・・・お嫌いですか・・・・・?」
それから、幾日たったかわからない。
今はこうして、蒼紫に抱かれている。
夕方、井戸で洗いものをしていた時。
背後に背の高い人影を感じて、はっ、と立ち上がった時にはもう、抱きすくめられていた。
「あおしさ・・・・・。」
しっかりと背中に、逃げられないように腕が回される。
蒼紫のことを朴念仁だと思っていた巴には、驚きでしかない蒼紫の行動であった。
巴が全部を言い切らないうちに、その唇を唇でふさがれた。
―――これが、接吻―――。
目もくらむ思いで、情熱的に続く蒼紫の唇を受けながら、巴は思った。
清里は確か、接吻などもせずに私の体に手を伸ばしてきた―――巴はそのことを、今では汚いものでも見るように思い返す。
あの頃の自分は自ら戦うという覚悟もなく、何の才覚もなく生きていた。
今は違う。
この方のもとで、この方のために、私には戦うという目標がある。
表向きは清里さま、あなたさまのためでございますが―――。
「ん・・・・んん・・・・。」
蒼紫が巧みに舌を使う。
それは、巴の知らない感覚であった。
じん、と体の奥がしびれる。
もっと・・・・もっと・・・・して・・・・・ほしい・・・・・・・・・・・・。
私をあなただけのものにして。
あなたを私だけのものにして。
夜の闇は、深い。
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