一、蒼紫と操の家庭について

蒼紫と操の設定、うちの小説では独自の設定になっています。読んでくださっている方はご承知だと思います。ただ、基本設定は変えていません。操がどこかの遊郭に育っていたり、とか、そこまで改変はしていません。先代御頭の孫娘です。
ただ・・・操の父親と蒼紫の間の軋轢は、実は私、『無限の住人』の中の弟橘槙絵の設定から考えて作っています。操の父親が十歳程度の蒼紫と立会いをして、三度戦って三度とも負けた、という部分ですね。それで『無限』では槙絵の兄は切腹して体面を保ったのですが、操の父親の場合、家を継がずに北陸に出たという設定になっています。北陸の地で、郷士として生きる道を選んだのです。御庭番衆として生きることを拒否したのですね。しかし子供相手に負け、その身を引いたのです。

非常によくある設定では、蒼紫は先代御頭の一族が滅亡して、ただ一人生き残った操を守って生きている、というものです。これはよく同人マンガなんかである設定なのですが、私はこの設定だと、蒼紫の複雑な心境が表現できないと思い、上記のように変えたわけです。操の父親が御庭番衆を否定し、去らなければ、蒼紫が非情な御頭として生きることもなかった・・・・この設定を際立たせるために、私は蒼紫の生い立ちを、そこそこの旗本の家にしました。ただ、貧乏をしていて、父親が切腹した後では、母親も早死にしてしまうほかなかった。ひとり残された蒼紫の境遇は、私は実は裏設定で、瀬田宗次郎と似た境遇にしました。やはり、ある家で使用人としてこき使われていて、宗次郎のように家人を切り殺してしまう。その惨殺場面に居合わせたのが、先代御頭です。私はこの先代御頭は、老賢人のイメージで書いています。志々雄真実がそばにいた宗次郎との違いは決定的で、蒼紫はその生涯生きる規範のようなものを、この自分を拾ってくれた先代御頭から学び取るのです。

そのように先代御頭から見込まれ、御頭としての大任をまかされるようになった蒼紫ですが、彼はもともとは御庭番衆ではないのです。だから、翁にわがままいっぱいに育てられた操を見ると、自分はもともとは御庭番衆とは関係がないんだ、という態度を示してしまう。また、自分の存在がなければ、操の父親は北陸で北越戦争で戦死することもなく、操が天涯孤独になることもなかった、とつい考えてしまう。だから彼は、操との距離を置きたがるのです。その辺に、原作マンガでの「失せろ」という一言が起因するものと思います。というか、この言葉の謎を解くべく、私はこの設定を考えたのですが・・・・。思えば観柳のところで残った四人組は、もともとの御庭番衆ではない者ばかりで、その辺もこの設定だと、蒼紫のこの時の心境を明かすことになるのかも知れません。

御庭番衆は武士ではありますが、武士道に生きなければならない、と言われ続ける存在ではありません。なのに、蒼紫は武士としての誇りをよく口にします。それは、武士としての節度を守った父の姿を追うものなのでしょう。でもいつか、操と正面から向かいあってもらいたい。つまり私はそういう話を読みたいし、書きたいのです。

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